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No.212新着 キネマ旬報 学生たちが始めた外国映画の旬刊誌と、批評の場としての百年

『キネマ旬報』は1919年7月、東京高等工業学校の学生ら4人が創刊した映画雑誌である。戦時統制による終刊と継続誌を経て戦後に再建され、ベスト・テンとともに批評の場となった。2018年に発行元が替わり、2023年から月刊となっている。

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登録日時
2026年11月1日 19:08
出典を確かめた日
2026年11月1日
分野
その他
立場
事実・データ
タグ
邦画新着洋画新着映画祭新着
作品・人物
キネマ旬報、田中三郎、映画旬報、キネマ旬報ベスト・テン
資料の種類
事典・概説
年代
1919年、1940年代

本文と出典

あらまし

『キネマ旬報』は、1919年(大正8年)に創刊された日本の映画雑誌である。ウィキペディアによれば、創刊したのは東京高等工業学校(現在の東京工業大学)の学生だった田中三郎ら4人で、創刊号は7月11日付とされる。映画会社の宣伝誌ではなく、学生たちが外国映画への関心から始めた雑誌だった点が出発点である。
その後、戦時統制による終刊、継続誌への切り替え、戦後の再建と復刊、発行元の交代を経て、現在は月刊誌として出ている。ここでは、雑誌がたどった道筋と、毎年のベスト・テンが担ってきた役割を中心にまとめる。映画賞そのものの比較は、別の記事に譲る。

主なできごと

・1919年7月 創刊。アート紙4ページの外国映画専門誌で、毎月1日・11日・21日に発行
・1923年9月 関東大震災で社屋が壊滅し、編集拠点を阪神間(兵庫県)へ移す
・1924年度 第1回ベスト・テンの対象年(当初は外国映画のみ)
・1926年度 第3回から日本映画も対象に加わる
・1940年12月 戦時統制により終刊
・1941年1月 継続誌『映画旬報』が発行される(1943年12月に廃刊)
・1946年3月 再建される
・1950年4月 いったん休刊。同年10月に復刊し、毎月5日と20日の発行になる
・1972年度 読者選出のベスト・テンが加わる
・2018年3月 新しい株式会社キネマ旬報社に事業が移管される
・2023年8月号 隔週刊から月刊になる

くわしく 創刊と初期

創刊時の姿は、いまの総合的な映画誌とは違う。紙面は4ページで、扱うのは外国映画だけだった。発行は毎月1日・11日・21日で、十日ごとの「旬」の刊行という形が誌名に表れている。
1923年9月の関東大震災で社屋が壊れたあと、編集の拠点は東京から兵庫県の芦屋市や西宮市の阪神間に移った。それでも刊行は続いたと、ウィキペディアは記す。

くわしく ベスト・テンの始まり

ベスト・テンは、1924年度が第1回である。当初の対象は外国映画だけで、「芸術的に最も優れた映画」と「娯楽的に最も優れた映画」の2つの部門があり、編集同人の投票で選んだ。日本映画が加わったのは1926年度(第3回)からで、ウィキペディアは日本映画の水準が上がったことを理由に挙げている。
つまり、始まりは雑誌の編集仲間が自分たちの評価を示す企画だった。選ぶ側は、現在も映画評論家、新聞記者、映画雑誌の編集者などから出ている。1972年度からは読者が選ぶベスト・テンも並ぶようになった。
現在の方式では、選考委員は120人前後である。各委員が部門ごとに10本を選び、1位に10点、2位に9点、10位に1点を与えて合計する。投票者と選考理由が雑誌で公表される点は、結果だけでなく考え方も読者に見せる仕組みである。

くわしく 戦時中から戦後へ

戦争は雑誌にも影響した。ベスト・テンは、1941年度と1942年度が日本映画のみとなり、1943年から1945年は選出が中止された。再開は1946年度(第20回)である。
雑誌も、1940年12月に戦時統制で終刊となった。翌1941年1月から継続誌『映画旬報』が出たが、1943年12月に廃刊した。戦後は1946年3月に再建し、1950年4月に一度休刊してから、同年10月に復刊した。ウィキペディアの記述をそのまま追うと、「休刊」「終刊」「再建」「復刊」が段階的に重なっている。

くわしく 現在

2018年3月、同年1月に設立された新しい株式会社キネマ旬報社に事業が移った。ウィキペディアによると、旧キネマ旬報社は社名を株式会社ケージェイに変え、同月に清算を始めている。
2023年5月に隔週刊の終了と月刊化が発表され、2023年7月20日発売の8月号から月刊になった。公式サイト(kinejun.jp)で確認できた最新号は「2026年11月号 No.1994」である。ベスト・テンは、2024年から2月5日発売の増刊号で発表されている。第99回(2025年度)の表彰式は2026年2月19日に東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールで開かれ、日本映画の作品賞は三宅唱監督の『旅と日々』だったと、ハリウッド・リポーター・ジャパンは伝える。

なぜ今も語られるのか

一つには、続いてきた年数がある。創刊は1919年で、ベスト・テンは1924年度から続く。戦時の中断と再建をはさんでも、年の締めくくりに「この年の映画は何だったか」を問う場として残ってきた。
もう一つは、結果と理由が公開される点である。点数の合計で順位が決まるだけでなく、誰がどの作品を選んだかが雑誌に載る。そのため、結果に賛否があっても、議論の材料が手元に残る。

評価の分かれる点

雑誌の位置づけについて、「日本の映画批評の中心だった」という見方が広く語られる。ただし、今回開いた資料でその評価を直接裏づける記述は確かめられていない。ここでは断定しない。
また、1940年12月の終刊と『映画旬報』の関係を、同じ雑誌の続きとみるか別の雑誌とみるかは、数え方による。ウィキペディアは「継続誌」と書くが、誌名も号数の扱いも変わっている。さらに、ベスト・テンの開始年は、ウィキペディアが「1924年度が第1回」とする対象年であり、発表年とは別に数える必要があるかもしれない。確かめられていないため、年の数え方は断定しない。

くらさんの考察

創刊者が学生だったことと、外国映画から始まったことは、雑誌の性格を考えるうえで見逃せないと考えられる。映画会社の外にいる書き手が、観客の側から作品を論じる場として出発したからこそ、後に日本映画を取り込むときも「水準が上がったから」という理由を掲げられたのではないか。
戦時の休刊も、検閲や統制の下で批評がどう続いたのかを考える手がかりになる。ただし、中身にまで踏み込める資料は今回開いていないため、推測にとどめる。
発行元が替わり月刊化した近年の変化は、紙の映画雑誌が置かれた状況の一つの現れと考えられる。理由まで語る資料は確かめられていない。

ジージへの問いかけ

・ジージが映画を選ぶとき、雑誌の評や年末の順位を頼りにしたことはありましたか。
・ベスト・テンの結果と、ご自身の「その年の一本」が食い違って驚いた年はありますか。
・映画雑誌を買って読む楽しみは、いまのネットの感想やレビューと何が違うと思いますか。

出典

・キネマ旬報(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/キネマ旬報
・キネマ旬報ベスト・テン(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/キネマ旬報ベスト・テン
・キネマ旬報社 公式サイト https://kinejun.jp/
・第99回キネマ旬報(2025年)表彰式・コメント(ハリウッド・リポーター・ジャパン) https://hollywoodreporter.jp/japan/178337/

動画

・【公式】2025年 第99回キネマ旬報ベスト・テン表彰式〈完全版〉(【公式】キネマ旬報)https://www.youtube.com/watch?v=wjXGTapJ_1I

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