邦画このタグの資料 62 本

  1. 日本の映画賞 日本アカデミー賞、キネマ旬報、毎日映画コンクール、ブルーリボン賞の違い新着No.163

    日本の主な映画賞は、誰が選ぶか、いつ始まったかがそれぞれ違う。キネマ旬報は1924年、毎日映画コンクールは1946年、ブルーリボン賞は1950年度、日本アカデミー賞は1978年に始まった。

  2. アカデミー賞と日本 名誉賞の時代から『ゴジラ-1.0』、2026年の授賞式まで新着No.162

    日本映画のアカデミー賞は、1950年代の名誉賞に始まり、2009年の『おくりびと』、2022年の『ドライブ・マイ・カー』、2024年の『ゴジラ-1.0』などへ続く。2026年3月の第98回の結果も確かめた範囲で記す。

  3. 世界三大映画祭と日本映画 羅生門から万引き家族まで、受賞の歴史新着No.161

    日本映画はヴェネツィア、カンヌ、ベルリンの三つの映画祭で、1950年代から最高賞を受けてきた。確かめられた受賞を年順に並べ、2026年のカンヌまでの動きを確認できた範囲で記す。

  4. 伊福部昭 ゴジラの音楽を書いた北海道生まれの作曲家新着No.117

    伊福部昭は北海道で育ち、ほぼ独学で作曲を学んだ。1947年に映画音楽を始め、1954年の『ゴジラ』をはじめ、300本以上の映画に曲をつけたとされる。

  5. 是枝裕和 テレビの記録から家族の映画へ進んだ監督新着No.116

    是枝裕和はテレビのドキュメンタリーから映画へ進み、1995年の『幻の光』で監督デビューした。2018年の『万引き家族』でカンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受けた。

  6. 北野武 お笑いの人気者が撮った暴力と静けさの映画新着No.115

    北野武は1989年の『その男、凶暴につき』で映画監督になり、1997年の『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受けた。映画監督としての仕事を中心に整理する。

  7. 宮崎駿 手描きの冒険を長編アニメの中心に据えた監督新着No.114

    宮崎駿は東映動画のアニメーターから、劇場作品の監督になった。1985年のスタジオジブリ設立後に数々の長編を作り、『千と千尋の神隠し』と『君たちはどう生きるか』でアカデミー賞の長編アニメ映画賞を受けた。

  8. 溝口健二 一場面を長い一カットで撮った女性映画の巨匠新着No.113

    溝口健二は1923年に監督になり、1950年代にヴェネツィアで3年連続の受賞を果たした。長回しを多用する作風で、フランスの批評家にも高く評価された。

  9. 黒澤明 世界の映画人が師と仰いだ監督新着No.112

    黒澤明は1943年に『姿三四郎』で監督になり、『羅生門』でヴェネツィア金獅子賞を受けた。三船敏郎や志村喬と多くの作品を作り、海外の映画人にも影響を与えたとされる。

  10. 小津安二郎 固定したカメラで家族の別れを撮り続けた監督新着No.111

    小津安二郎は松竹で撮影助手から監督になり、1927年から1962年まで撮り続けた。低い位置に据えたほぼ固定のカメラで、親子と家族の別れを描いた。『東京物語』は後年、海外の映画人の投票でも上位に挙がっている。

  11. 笠智衆と、小津映画の俳優たち 日本の父親像をつくった顔ぶれ新着No.108

    笠智衆(1904〜1993)は、1925年に松竹の研究生となり、10年以上の端役を経て、小津安二郎作品で父親役を重ねた。『東京物語』の平山周吉、『男はつらいよ』の御前様まで、小津映画の俳優たちとともにたどる。

  12. 渥美清 『男はつらいよ』の寅さんになる前と後新着No.107

    渥美清(1928〜1996)は、1969年に始まった『男はつらいよ』で車寅次郎を演じた。シリーズは50作、実質の遺作は1995年の第48作。寅さん以前の仕事、受賞、寅さんと素顔の見方の違いをまとめる。

  13. 高倉健 任侠映画の看板から、『鉄道員』の主演男優賞まで新着No.106

    高倉健(1931〜2014)は東映ニューフェイスから出て、任侠映画の看板になり、1976年の東映退社後は『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』などで主演男優賞を重ねた。2012年の『あなたへ』が最後の主演作になる。

  14. 三船敏郎 『世界のミフネ』と呼ばれた、黒澤映画の主役新着No.105

    三船敏郎(1920〜1997)は、東宝ニューフェイスから黒澤明作品の主役になり、ヴェネツィア国際映画祭で男優賞を2度受けた。三船プロダクションの設立と閉鎖、海外の仕事、デビューの経緯をめぐる食い違いを整理する。

  15. 樹木希林 脇で光り、主演にもなった、映画の最晩年新着No.104

    樹木希林(1943〜2018)は、日本アカデミー賞の主演と助演の両方で最優秀賞を受けた数少ない女優である。『歩いても 歩いても』『あん』『万引き家族』などをたどり、亡くなった年に3本が公開された晩年を整理する。

  16. 吉永小百合 『キューポラのある街』から『こんにちは、母さん』まで新着No.103

    吉永小百合は1959年に映画デビューし、2025年にも主演作がある。日活の清純な娘役から、大人の女性へ役を移した歩みと、日本アカデミー賞主演女優賞の受賞回数などを、映画の仕事に絞って整理する。

  17. 高峰秀子 『子役は大成しない』を破った、五歳から五十五歳までの女優新着No.102

    高峰秀子(1924〜2010)は1929年に子役で映画に出はじめ、1979年に引退するまで50年にわたり主演を続けた。『二十四の瞳』『浮雲』などの代表作と、引退後の文筆の仕事、評価の割れる点を整理する。

  18. 原節子 『永遠の処女』と呼ばれた、小津映画の顔新着No.101

    原節子(1920〜2015)は、1935年に日活でデビューし、戦後は小津安二郎作品で看板女優になった。1963年に事実上引退し、理由は語られないまま2015年に亡くなった。ウィキペディアの記述を土台に、その仕事と評価の割れ方をたどる。

  19. ドライブ・マイ・カー(ビターズ・エンド・2021年) 村上春樹の短編が、アカデミー賞国際長編映画賞に届いた新着No.92

    濱口竜介監督が村上春樹の短編を映画にした179分の作品。2021年のカンヌ国際映画祭で脚本賞を含む複数の賞を受け、2022年3月27日の第94回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞し、日本映画で初めて作品賞の候補にもなった。

  20. 劇場版「鬼滅の刃」無限列車編(東宝・アニプレックス・2020年) コロナ禍の映画館に、行列が戻った新着No.91

    2020年10月16日に公開され、新型コロナで映画館の客足が落ちた時期に、日本の興行収入の歴代首位に立った。最終成績は観客動員2917万人、興行収入404億円(ウィキペディア)。

  21. 万引き家族(ギャガ・2018年) 血のつながらない家族を、カンヌのパルムドールが評価した新着No.90

    是枝裕和監督が、貧しい暮らしの中で寄り添う一家を描いた映画。2018年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを受け、日本人監督の作品としては1997年の『うなぎ』以来21年ぶりだった。国内の興行は約45.5億円。

  22. おくりびと(松竹・2008年) 納棺という仕事を、静かな物語にした新着No.89

    納棺師という職業を描き、2008年9月13日に公開された滝田洋二郎監督の映画。本木雅弘が青木新門の『納棺夫日記』に感銘を受けたことが企画の出発点になった。2009年のアカデミー賞外国語映画賞を受け、公開から半年後に興行が大きく伸びた。

  23. Shall we ダンス?(東宝・1996年) 中年男の社交ダンスが、日本アカデミー賞を総なめにした新着No.88

    周防正行監督が、社交ダンス教室に通い始めたサラリーマンを描いた映画。1996年1月27日に公開され、第20回日本アカデミー賞で14部門を受賞した。ミラマックスの配給で米国でも公開され、2004年にはハリウッドでリメイクされた。

  24. 千と千尋の神隠し(東宝・2001年) 十歳の少女のために作られ、日本の興行記録を塗り替えた新着No.87

    宮崎駿監督が、スタジオジブリ関係者の十歳前後の少女たちに向けて作った長編アニメ。2001年7月20日に公開され、当時の日本映画の興行記録を更新し、ベルリン国際映画祭の金熊賞とアカデミー賞長編アニメ映画賞を受けた。

  25. 砂の器(松竹・1974年) 台詞をほぼ削った、親子の旅の十分間新着No.86

    1974年10月19日に公開された松本清張原作、野村芳太郎監督の松竹・橋本プロダクション作品。製作中の中断や、ハンセン病の描写をめぐる申し入れを経て完成した。配給収入は7億円で、1974年の邦画の第3位とされる。

  26. 男はつらいよ(松竹・1969年〜) テレビの最終回への抗議から、シリーズが始まった新着No.85

    1969年8月27日に第1作が公開された松竹の人情喜劇。テレビドラマ最終回への視聴者の抗議が映画化につながった。渥美清が出演した48作は、配給収入464億3000万円、観客動員7957万3000人とされる。

  27. 羅生門(大映・1950年) ヴェネツィア金獅子賞が、日本映画を世界に知らせた新着No.84

    1950年8月25日に大映が公開した黒澤明監督の作品。1951年にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受け、日本映画として初の受賞になった。当時の大映も黒澤も出品を知らなかったとされる。

  28. ゴジラ(東宝・1954年) 水爆実験の年に生まれた、最初の怪獣映画新着No.83

    1954年11月3日に東宝が公開した本多猪四郎監督の特撮映画。第五福竜丸事件の年に企画され、製作費は約1億円、配給収入は1億5214万円だった。アメリカ向けの再編集版も作られた。

  29. 七人の侍(東宝・1954年) 一年がかりで撮った、野武士と農民の合戦新着No.82

    1954年4月26日に東宝が公開した黒澤明監督の時代劇。上映時間207分、製作費は当時の普通の作品の約7本分とされる。複数のカメラで合戦を撮る手法を取り入れ、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受けた。

  30. 東京物語(松竹・1953年) 家族が離れていくことを、静かに見つめた新着No.81

    1953年11月3日に公開された小津安二郎監督の松竹作品。尾道から東京へ出てきた老夫婦と、子どもたちの暮らしを描く。海外での評価が後から高まり、世界の映画人の投票でも上位に挙がる。

  31. フィルムからデジタルへ 撮影と上映の変化と、フィルムを残すということ新着No.78

    映画館は2010年代初めにフィルム映写機からDCPというデジタル上映に移った。国立映画アーカイブは、デジタル保存には費用と消失の危険があるとして、フィルム原版を残す立場を取っている。

  32. 映倫とレイティング 検閲ではなく、映画界の自主規制という仕組み新着No.77

    映倫は映画界が設けた第三者による審査機関で、公開前に作品をG、PG12、R15+、R18+に分ける。成り立ちには占領期の検閲と、1956年の太陽族映画をめぐる批判がある。

  33. 配給と宣伝 映画を観客に届ける仕事と、ブロックブッキングの時代新着No.76

    配給会社は買い付け、宣伝、上映用素材の供給、映画館との契約を担う。かつての日本はブロックブッキングが主流で、1980年代にミニシアターが単館での公開を広げた。

  34. 助監督・制作・美術・衣装・メイク 現場を支えるスタッフと、撮影所システムの終わり新着No.75

    日本の現場では、技師と助手の組で部署が成り立つ。助監督は監督への道でもあったが、1971年ごろに撮影所の専属制が崩れ、フリーの時代に移った。

  35. 編集と音楽 映像をつなぎ、音を重ねる仕事新着No.74

    編集は撮影した素材を選んで組み立てる仕事で、フィルムからデジタルに変わった。映画音楽では伊福部昭がゴジラの音を作り、武満徹は邦楽器やテープ音楽を持ち込み、久石譲は宮崎駿や北野武の作品に関わった。

  36. 撮影・照明・録音の仕事 画と音をつくる技師たち新着No.73

    日本では撮影、照明、録音はそれぞれ技師が責任者となって分担してきた。宮川一夫は『羅生門』で太陽を撮り、『おとうと』で銀残しを使った。木村大作は助手から撮影者になり、監督にもなった。

  37. 脚本と脚本家 橋本忍、野田高梧、倉本聰、宮藤官九郎の仕事新着No.72

    脚本は映画の設計図であり、版を重ねて決定稿になる。橋本忍は黒澤明との共同執筆、野田高梧は小津安二郎との共作、倉本聰と宮藤官九郎はテレビや舞台を経て映画に関わった。

  38. 映画ができるまで 企画から公開までの道のりと、製作委員会方式という日本の仕組み新着No.71

    映画は企画、資金集め、撮影準備、撮影、仕上げ、配給、公開の順に進む。日本では複数の会社が出資する製作委員会方式がよく使われ、製作側と配給側でお金の流れが分かれる点に特徴がある。

  39. 日本の映画興行の数字 ピークの1958年と現在新着No.59

    映連の統計では、年間入場者数のピークは1958年の約11億2,745万人で、2025年は約1億8,876万人にあたる。興行収入の歴代ランキングは、配給収入と興行収入が混ざるため、単純には比べられない。

  40. 映画館の移り変わり 封切館からシネコンまで新着No.58

    日本のスクリーン数は1960年の7,457をピークに減り、1993年に1,734まで落ちたあと、シネコンの登場で増えた。2025年は3,697で、うちシネコンが3,305である。

  41. 製作委員会方式 映画の資金を分け合う仕組みと弱点新着No.57

    製作委員会方式は、複数の会社が出資し、作品の権利を共同で持つ仕組みである。民法上の任意組合とされ、リスクを分けられる反面、権利の整理に手間がかかる。映画では1990年代に主流になったと説明される。

  42. 角川書店と角川映画 本と映画を組み合わせた宣伝新着No.56

    角川春樹は1976年の『犬神家の一族』で映画製作に入り、文庫の宣伝と映画の宣伝を一つにするメディアミックスを日本映画に持ち込んだ。1993年に春樹が角川書店を去り、2002年には大映の映画事業を引き継いだ。

  43. 大映と新東宝 倒産した二社と、その後の行方新着No.55

    大映は1942年の戦時統合で生まれ、永田雅一の下で『羅生門』などを世に出したが、1971年に破産した。新東宝は東宝争議から1947年に生まれ、1961年に倒産した。大映の名は徳間書店を経て、2002年に角川書店へ引き継がれた。

  44. 日活 創立1912年、石原裕次郎からロマンポルノへ新着No.54

    日活は1912年に4社の合併で生まれた日本で最も古い映画会社の一つである。戦時に製作部門を失い、1954年に製作を再開して石原裕次郎の青春映画で伸びたが、1971年からはロマンポルノで生き延びた。会社更生を経て、今は日本テレビとスカパーJSATが主な株主である。

  45. 東映 京都撮影所と時代劇、任侠から現在まで新着No.53

    東映は1951年に出発し、5年で配収トップに立った。時代劇、任侠、実録、アニメ、テレビ、ビデオと、その時代に売れる路線へ次々と乗り換えて生き延びた会社である。

  46. 松竹 蒲田から大船へ、歌舞伎の会社が作った映画新着No.52

    松竹は歌舞伎などの興行から出発し、1920年に映画製作を始めた会社である。蒲田、大船の撮影所から多くの監督を出したが、2000年に大船撮影所を閉じた。今は歌舞伎興行と映画の配給・興行を柱にしている。

  47. 東宝 劇場から出発し、特撮とアニメで続く会社新着No.51

    東宝は映画会社として生まれたのではなく、東京宝塚劇場という興行会社として1932年に始まった。写真化学研究所(PCL)などと一緒になって製作・配給・興行を一社で行う形ができ、特撮、喜劇シリーズ、アニメ配給で時代ごとに稼ぎ方を変えてきた。

  48. ホラー 怪談映画から『リング』『呪怨』、ハリウッドのリメイクまで新着No.38

    日本のホラーは江戸の怪談と歌舞伎に根を持ち、1959年の『東海道四谷怪談』を経て、1998年の『リング』がJホラーの呼び名を広げた。『呪怨』と合わせてハリウッドでも映画化された。

  49. 青春・アイドル・恋愛映画 太陽族から角川映画、少女漫画原作まで新着No.37

    1956年の太陽族映画は映倫の見直しまで招いた。1976年に始まる角川映画は本と映画と音楽を組み合わせ、アイドルを育てた。2010年代の少女漫画原作は量産され、ノベル原作へ軸が移った。

  50. 任侠・実録・アクション 東映任侠、仁義なき戦い、日活アクション、Vシネマ新着No.36

    時代劇が不振になった東映は1963年から任侠映画を量産し、1973年の『仁義なき戦い』が実録路線を開いた。日活は若者向けアクションを経て1971年にロマンポルノへ移り、1989年にVシネマが生まれた。

  51. 喜劇とシリーズ映画 社長シリーズから男はつらいよまで新着No.35

    東宝は社長シリーズと駅前シリーズで、松竹は男はつらいよで、同じ顔ぶれの続き物を長く売った。それを可能にしたのは、映画会社が上映館まで握る体制と二本立てだった。

  52. ドキュメンタリーと記録映画 文化映画から小川紳介、原一男、想田和弘まで新着No.34

    戦前の文化映画は映画法で上映が義務づけられた。戦後は小川紳介、土本典昭、原一男らが、取材対象と生活を共にする作り方を築き、近年は想田和弘の観察映画に続く。

  53. アニメ映画 白蛇伝からジブリ、鬼滅の刃まで新着No.33

    1958年の東映動画『白蛇伝』を出発点に、ジブリの設立、『千と千尋の神隠し』『君の名は。』を経て、2020年に『鬼滅の刃』が国内歴代1位となった。2025年の年間興収も、アニメが牽引した。

  54. 怪獣・特撮 ゴジラの着ぐるみからゴジラ-1.0の視覚効果賞まで新着No.32

    1954年の『ゴジラ』は着ぐるみ、ミニチュア、光学合成で作られ、961万人を集めた。大映のガメラを経て、2023年の『ゴジラ-1.0』は日本映画として初めてアカデミー賞の視覚効果賞を受けた。

  55. 時代劇 チャンバラから東映の全盛、テレビへの移行まで新着No.31

    時代劇は無声映画のチャンバラに始まり、1950年代の東映で年間170本台の量産に達した。1960年代に任侠映画とテレビへ主役を譲り、近年は低予算の『侍タイムスリッパー』のような例も出ている。

  56. 2000年以降の映画 シネコンと製作委員会、コロナ禍を越えて最高の年へ新着No.7

    2000年以降はシネコンが主流になり、製作委員会方式とアニメ映画の大ヒットが興行を支えた。2020年にコロナ禍で入場者が1億610万人台まで落ち、2025年に映連の統計で興行収入が2,744億円と最高になった。2026年の上半期は、ディズニーの洋画と『名探偵コナン』がけん引している。

  57. 1990年代の映画 低迷の底でシネコンが来て、もののけ姫が記録を作った新着No.6

    1990年代前半は入場者とスクリーン数が最低水準まで落ち、日活が会社更生法を申請した。1993年のシネコン登場から潮目が変わり、1997年の『もののけ姫』が配給収入117億6,000万円で邦画の記録を作った。

  58. 1980年代の映画 角川商法とビデオ、そしてナウシカ新着No.5

    1980年代は角川映画のアイドル路線、レンタルビデオの正式な広がり、アニメ映画の台頭、ミニシアターの誕生が重なった。『風の谷のナウシカ』(1984年)の成功からスタジオジブリが1985年に生まれた。

  59. 1960〜70年代の映画 観客が減り、五社が崩れ、新しい作り手が出た新着No.4

    映連の統計では、入場者は1960年の約10億人から1970年代末の約1億6,500万人まで落ちた。五社の体制は大映の倒産と日活のロマンポルノ転換で崩れ、東映の実録路線やATG、角川映画が新しい流れを作った。

  60. 戦後の映画 占領から黄金期へ、羅生門が世界に出た新着No.3

    戦後の日本映画は占領下の検閲と東宝争議から始まり、1951年に『羅生門』がヴェネツィアで金獅子賞を得た。映連の統計では入場者は1958年の約11億2,700万人が最多で、五社の体制もこの時期にできた。

  61. 昭和戦前の映画 トーキーが来て、国が映画を管理した新着No.2

    昭和の前半は、傾向映画から『マダムと女房』に代表されるトーキーへ映画が変わり、PCLから東宝が生まれた時期である。1939年の映画法で製作と配給が許可制になり、戦争末期には映画会社の再編と製作本数の激減が起きた。

  62. 大正までの映画 活動写真が町に来て、弁士が語った新着No.1

    日本の映画は1896年の神戸と1897年の大阪の上映から始まり、日本人の撮影、専用の小屋、弁士、旧劇のスターと育った。大正に入ると舞台劇に近い映画を作り替える純映画劇運動が起き、1923年の関東大震災で東京の撮影所が打撃を受けた。

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