ver0.91

← 俳優と監督一覧へ戻る

No.214新着 森繁久彌 『夫婦善哉』から社長・駅前シリーズ、舞台のテヴィエ役まで歩んだ俳優

森繁久彌は1913年生まれの俳優で、NHKのアナウンサーから出発し、1955年の『夫婦善哉』で演技派として評価された。東宝の社長シリーズ、駅前シリーズで喜劇の中心に立ち、1967年からは舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』のテヴィエ役を1986年まで900回務めた。2009年に96歳で亡くなり、国民栄誉賞が没後に授与された。

𝕏 でポストする

登録日時
2026年11月2日 19:10
出典を確かめた日
2026年11月2日
分野
俳優と監督
立場
事実・データ
タグ
邦画新着東宝新着男優新着監督新着
作品・人物
森繁久彌、豊田四郎、淡島千景、東宝、屋根の上のヴァイオリン弾き
資料の種類
事典・概説
年代
1913年、1950年代、1960年代

本文と出典

あらまし

森繁久彌(もりしげ・ひさや)は、1913年5月4日に大阪府枚方町(現在の枚方市)に生まれ、2009年11月10日に東京都内の病院で96歳で亡くなった俳優である。
映画初出演は1947年、初主演は1950年の『腰抜け二刀流』で、出発は映画俳優ではなかった。早稲田大学で演劇に親しみ、東京宝塚劇場に入り、NHKのアナウンサーとして満洲に渡った経歴を持つ。
映画では東宝を中心に、文芸作品から喜劇のシリーズまでを演じ分けた。晩年は舞台でも大きな仕事を残した。
東宝という会社そのものの説明は、すでにサイトにある「東宝」の記事に譲る。喜劇とシリーズ映画の全体像も、「喜劇とシリーズ映画」の記事に書いてある。ここでは、森繁個人の歩みに絞る。

主なできごと

・1913年 大阪府枚方町に生まれる
・1936年 早稲田大学を中退し、東京宝塚劇場に入る
・1939年 NHKのアナウンサー試験に合格し、満洲の新京中央放送局に赴任する
・1946年 満洲から帰国する
・1947年 衣笠貞之助監督の『女優』で映画に初出演する
・1950年 『腰抜け二刀流』で映画初主演。NHKラジオ『愉快な仲間』にも出る
・1952年 『三等重役』が出世作となる
・1955年 『夫婦善哉』に主演する
・1956年 社長シリーズが始まる
・1958年 駅前シリーズが始まる
・1967年 ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の日本版が帝国劇場で初演される
・1991年 文化勲章を受ける
・2009年 死去。同年12月に国民栄誉賞が授与される

くわしく アナウンサーから映画へ

ウィキペディアによると、森繁は1934年に早稲田大学商学部に進み、演劇研究部に所属した。1936年に軍事教練を拒んで大学を離れ、東京宝塚劇場で下積みを続けた。
1939年にNHKのアナウンサー試験に合格し、満洲の新京中央放送局に赴任した。敗戦を新京で迎え、帰国は1946年11月である。
帰国の翌年に映画に初出演し、1950年に『腰抜け二刀流』で初主演を得た。ブリタニカ国際大百科事典(コトバンク)は、1952年の喜劇『三等重役』で出世したと記している。

くわしく 『夫婦善哉』

『夫婦善哉』は1955年9月13日に東宝が公開した作品である。監督は豊田四郎、原作は織田作之助の小説、脚本は八住利雄で、上映時間は121分とされる。
森繁は商家の放蕩息子の柳吉を、淡島千景は芸者の蝶子を演じた。舞台は昭和初期の大阪で、頼りない男としっかり者の女の夫婦のありさまが、笑いを交えて描かれる。
ウィキペディアによれば、森繁は毎日映画コンクールの男優主演賞を受けた。ブルーリボン賞では、森繁と淡島千景がそれぞれ主演の賞を受けている。作品はキネマ旬報ベスト・テンで第2位だった。コトバンクの記述も、喜劇の人気者だった森繁がこの作品で演技派として認められたとしている。

くわしく 社長シリーズと駅前シリーズ

社長シリーズは1956年1月3日公開の『へそくり社長』(千葉泰樹監督)で始まり、1970年までに33作が作られた。脚本は全作で笠原良三、監督の大半は松林宗恵である。小林桂樹、加東大介、三木のり平、フランキー堺らが共演した。
1964年の『社長紳士録』正続編でいったん終わる予定だったが、観客と映画館主から続行の声が強く、1965年の『社長忍法帖』で再開された。1970年の『社長学ABC』では森繁が会長に回り、森繁が社長を務めるシリーズは終わった。
駅前シリーズは1958年の『駅前旅館』(豊田四郎監督、井伏鱒二の小説が原作)に始まり、1969年までに24作が作られた。森繁、伴淳三郎、フランキー堺が主役を分け合い、東宝の関連会社の東京映画が製作し、東宝が配給した。
なお、駅前シリーズのウィキペディアの項には出典の不足を示す注意書きがあり、細部は鵜呑みにできない。本稿は作品数と主な顔ぶれにとどめた。

くわしく 舞台と歌

ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』は、1964年にニューヨークで初演されたアメリカの作品である。ウィキペディアによると、日本版は1967年9月6日に帝国劇場で初演され、森繁が主人公の牛乳屋テヴィエを1986年まで900回務めた。ウィキペディア「森繁久彌」には、観客動員を約165万人とする記述がある。その後、テヴィエ役は上條恒彦、西田敏行、市村正親に引き継がれた。
歌では、1960年に映画の撮影で知床に滞在した折に作った「知床旅情」がある。ウィキペディアは、1970年に加藤登紀子がカバーしたと記す。

くわしく 晩年と栄典

紫綬褒章を1975年、文化功労者に選ばれたのが1984年、勲二等瑞宝章を1987年に受けた。1991年には文化勲章を受け、ウィキペディアは大衆芸能の演劇者としては史上初としている。
2002年12月31日に沖縄で心筋梗塞に倒れたが回復し、2004年公開の『死に花』が最後の映画出演になった。2004年1月2日放送のテレビドラマが、俳優として最後の演技だったとされる。
国民栄誉賞は没後の2009年12月22日、鳩山由紀夫内閣のもとで授与された。ウィキペディア「国民栄誉賞」とnippon.comの受賞者一覧の両方で、この日付と没後受賞が確かめられた。ウィキペディア「森繁久彌」には閣議決定を12月8日とする記述があり、授与日とは別の日である可能性があるが、今回この点は別の資料で確かめていない。

なぜ今も語られるのか

軽い喜劇のシリーズと、文芸色の濃い『夫婦善哉』、長期にわたる舞台の主役が、一人の経歴に並んでいる。時期をたどると、1950年代半ばには1955年の『夫婦善哉』と1956年の社長シリーズがほぼ同時に重なる。
一方で、映画会社の側の事情もある。社長シリーズは観客と映画館主の要望で再開されており、固定した観客層を相手にした定番の商品だったことがうかがえる。森繁はその看板を15年近く背負った。

評価の分かれる点

森繁を「喜劇役者」と見るか「演技派」と見るかは、資料ごとに強調の置き方が違う。コトバンクは『夫婦善哉』を転機として、演技派としての評価を述べる。ただ、同じ時期に社長シリーズも始まっており、どちらが本来の姿かは決められない。
また、国民栄誉賞に関する日付は、閣議決定と授与で資料の書き方が異なる。本稿は授与の12月22日を採った。

くらさんの考察

1950年代に映画が量産されたなかで、同じ俳優が文芸作品とシリーズを並行して演じられたのは、東宝がシリーズを撮影所の定番として回す仕組みを持っていたからだと考えられる。
舞台のテヴィエ役を19年にわたり続けた事実は、映画の人気だけでなく、舞台で客を呼べる俳優と見られていたことを示すと考えられる。ただし、これは上演回数からの推測であり、当時の評判を直接確かめたわけではない。

ジージへの問いかけ

・社長シリーズや駅前シリーズは、ジージの子どものころや若いころ、映画館でどのように見られていましたか。
・森繁久彌といえば、映画、舞台、歌、ラジオのどれを最初に思い出しますか。
・『夫婦善哉』のように、大阪を舞台にした映画で印象に残っているものはありますか。

出典

・ウィキペディア「森繁久彌」 https://ja.wikipedia.org/wiki/森繁久彌
・コトバンク「森繁久彌」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典) https://kotobank.jp/word/森繁久彌-18339
・ウィキペディア「夫婦善哉 (映画)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫婦善哉_(映画)
・ウィキペディア「社長シリーズ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/社長シリーズ
・ウィキペディア「駅前シリーズ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/駅前シリーズ
・ウィキペディア「屋根の上のバイオリン弾き」 https://ja.wikipedia.org/wiki/屋根の上のヴァイオリン弾き
・ウィキペディア「国民栄誉賞」 https://ja.wikipedia.org/wiki/国民栄誉賞
・nippon.com 国民栄誉賞の受賞者 https://www.nippon.com/ja/features/h00027/

動画

・『社長洋行記』(1962)予告篇(東宝クラシックス)https://www.youtube.com/watch?v=cdRnB8DoZE8

関連動画

この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが映画QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。