監督このタグの資料 30 本

  1. 香港映画とアジア映画 カンフー、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、台湾の新しい波新着No.134

    香港映画は1920年代に始まり、1960年代のショウ・ブラザーズ、1970年代のブルース・リー、1978年のジャッキー・チェンの出世作を経て広がった。日本ではジャッキー人気が大きく、台湾ではニューシネマが同じころ生まれた。

  2. イタリア映画とネオレアリズモ 廃墟の街で、素人を使って撮った戦後新着No.133

    ネオレアリズモは、戦後イタリアで1940年代に確立した写実的な映画の動きである。日本には1949年9月以降に作品が相次いで公開され、「ネオリアリズム」の名で紹介された。確かめられた範囲の事実と、わからない点を分けて整理する。

  3. フランス映画とヌーヴェルヴァーグ 批評家が撮り手になった「新しい波」新着No.132

    映画の有料上映が始まったフランスは、1950年代末に「新しい波」と呼ばれる若手監督の動きを生んだ。批評家出身の監督たちが低予算で撮った作品は、日本にも伝わり、松竹の若手監督の売り出しにも使われた。

  4. 是枝裕和 テレビの記録から家族の映画へ進んだ監督新着No.116

    是枝裕和はテレビのドキュメンタリーから映画へ進み、1995年の『幻の光』で監督デビューした。2018年の『万引き家族』でカンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受けた。

  5. 北野武 お笑いの人気者が撮った暴力と静けさの映画新着No.115

    北野武は1989年の『その男、凶暴につき』で映画監督になり、1997年の『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受けた。映画監督としての仕事を中心に整理する。

  6. 宮崎駿 手描きの冒険を長編アニメの中心に据えた監督新着No.114

    宮崎駿は東映動画のアニメーターから、劇場作品の監督になった。1985年のスタジオジブリ設立後に数々の長編を作り、『千と千尋の神隠し』と『君たちはどう生きるか』でアカデミー賞の長編アニメ映画賞を受けた。

  7. 溝口健二 一場面を長い一カットで撮った女性映画の巨匠新着No.113

    溝口健二は1923年に監督になり、1950年代にヴェネツィアで3年連続の受賞を果たした。長回しを多用する作風で、フランスの批評家にも高く評価された。

  8. 黒澤明 世界の映画人が師と仰いだ監督新着No.112

    黒澤明は1943年に『姿三四郎』で監督になり、『羅生門』でヴェネツィア金獅子賞を受けた。三船敏郎や志村喬と多くの作品を作り、海外の映画人にも影響を与えたとされる。

  9. 小津安二郎 固定したカメラで家族の別れを撮り続けた監督新着No.111

    小津安二郎は松竹で撮影助手から監督になり、1927年から1962年まで撮り続けた。低い位置に据えたほぼ固定のカメラで、親子と家族の別れを描いた。『東京物語』は後年、海外の映画人の投票でも上位に挙がっている。

  10. ドライブ・マイ・カー(ビターズ・エンド・2021年) 村上春樹の短編が、アカデミー賞国際長編映画賞に届いた新着No.92

    濱口竜介監督が村上春樹の短編を映画にした179分の作品。2021年のカンヌ国際映画祭で脚本賞を含む複数の賞を受け、2022年3月27日の第94回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞し、日本映画で初めて作品賞の候補にもなった。

  11. 万引き家族(ギャガ・2018年) 血のつながらない家族を、カンヌのパルムドールが評価した新着No.90

    是枝裕和監督が、貧しい暮らしの中で寄り添う一家を描いた映画。2018年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを受け、日本人監督の作品としては1997年の『うなぎ』以来21年ぶりだった。国内の興行は約45.5億円。

  12. おくりびと(松竹・2008年) 納棺という仕事を、静かな物語にした新着No.89

    納棺師という職業を描き、2008年9月13日に公開された滝田洋二郎監督の映画。本木雅弘が青木新門の『納棺夫日記』に感銘を受けたことが企画の出発点になった。2009年のアカデミー賞外国語映画賞を受け、公開から半年後に興行が大きく伸びた。

  13. Shall we ダンス?(東宝・1996年) 中年男の社交ダンスが、日本アカデミー賞を総なめにした新着No.88

    周防正行監督が、社交ダンス教室に通い始めたサラリーマンを描いた映画。1996年1月27日に公開され、第20回日本アカデミー賞で14部門を受賞した。ミラマックスの配給で米国でも公開され、2004年にはハリウッドでリメイクされた。

  14. 砂の器(松竹・1974年) 台詞をほぼ削った、親子の旅の十分間新着No.86

    1974年10月19日に公開された松本清張原作、野村芳太郎監督の松竹・橋本プロダクション作品。製作中の中断や、ハンセン病の描写をめぐる申し入れを経て完成した。配給収入は7億円で、1974年の邦画の第3位とされる。

  15. 男はつらいよ(松竹・1969年〜) テレビの最終回への抗議から、シリーズが始まった新着No.85

    1969年8月27日に第1作が公開された松竹の人情喜劇。テレビドラマ最終回への視聴者の抗議が映画化につながった。渥美清が出演した48作は、配給収入464億3000万円、観客動員7957万3000人とされる。

  16. 羅生門(大映・1950年) ヴェネツィア金獅子賞が、日本映画を世界に知らせた新着No.84

    1950年8月25日に大映が公開した黒澤明監督の作品。1951年にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受け、日本映画として初の受賞になった。当時の大映も黒澤も出品を知らなかったとされる。

  17. ゴジラ(東宝・1954年) 水爆実験の年に生まれた、最初の怪獣映画新着No.83

    1954年11月3日に東宝が公開した本多猪四郎監督の特撮映画。第五福竜丸事件の年に企画され、製作費は約1億円、配給収入は1億5214万円だった。アメリカ向けの再編集版も作られた。

  18. 七人の侍(東宝・1954年) 一年がかりで撮った、野武士と農民の合戦新着No.82

    1954年4月26日に東宝が公開した黒澤明監督の時代劇。上映時間207分、製作費は当時の普通の作品の約7本分とされる。複数のカメラで合戦を撮る手法を取り入れ、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受けた。

  19. 東京物語(松竹・1953年) 家族が離れていくことを、静かに見つめた新着No.81

    1953年11月3日に公開された小津安二郎監督の松竹作品。尾道から東京へ出てきた老夫婦と、子どもたちの暮らしを描く。海外での評価が後から高まり、世界の映画人の投票でも上位に挙がる。

  20. 角川書店と角川映画 本と映画を組み合わせた宣伝新着No.56

    角川春樹は1976年の『犬神家の一族』で映画製作に入り、文庫の宣伝と映画の宣伝を一つにするメディアミックスを日本映画に持ち込んだ。1993年に春樹が角川書店を去り、2002年には大映の映画事業を引き継いだ。

  21. 松竹 蒲田から大船へ、歌舞伎の会社が作った映画新着No.52

    松竹は歌舞伎などの興行から出発し、1920年に映画製作を始めた会社である。蒲田、大船の撮影所から多くの監督を出したが、2000年に大船撮影所を閉じた。今は歌舞伎興行と映画の配給・興行を柱にしている。

  22. ホラー 怪談映画から『リング』『呪怨』、ハリウッドのリメイクまで新着No.38

    日本のホラーは江戸の怪談と歌舞伎に根を持ち、1959年の『東海道四谷怪談』を経て、1998年の『リング』がJホラーの呼び名を広げた。『呪怨』と合わせてハリウッドでも映画化された。

  23. 任侠・実録・アクション 東映任侠、仁義なき戦い、日活アクション、Vシネマ新着No.36

    時代劇が不振になった東映は1963年から任侠映画を量産し、1973年の『仁義なき戦い』が実録路線を開いた。日活は若者向けアクションを経て1971年にロマンポルノへ移り、1989年にVシネマが生まれた。

  24. ドキュメンタリーと記録映画 文化映画から小川紳介、原一男、想田和弘まで新着No.34

    戦前の文化映画は映画法で上映が義務づけられた。戦後は小川紳介、土本典昭、原一男らが、取材対象と生活を共にする作り方を築き、近年は想田和弘の観察映画に続く。

  25. アニメ映画 白蛇伝からジブリ、鬼滅の刃まで新着No.33

    1958年の東映動画『白蛇伝』を出発点に、ジブリの設立、『千と千尋の神隠し』『君の名は。』を経て、2020年に『鬼滅の刃』が国内歴代1位となった。2025年の年間興収も、アニメが牽引した。

  26. 怪獣・特撮 ゴジラの着ぐるみからゴジラ-1.0の視覚効果賞まで新着No.32

    1954年の『ゴジラ』は着ぐるみ、ミニチュア、光学合成で作られ、961万人を集めた。大映のガメラを経て、2023年の『ゴジラ-1.0』は日本映画として初めてアカデミー賞の視覚効果賞を受けた。

  27. 時代劇 チャンバラから東映の全盛、テレビへの移行まで新着No.31

    時代劇は無声映画のチャンバラに始まり、1950年代の東映で年間170本台の量産に達した。1960年代に任侠映画とテレビへ主役を譲り、近年は低予算の『侍タイムスリッパー』のような例も出ている。

  28. 1960〜70年代の映画 観客が減り、五社が崩れ、新しい作り手が出た新着No.4

    映連の統計では、入場者は1960年の約10億人から1970年代末の約1億6,500万人まで落ちた。五社の体制は大映の倒産と日活のロマンポルノ転換で崩れ、東映の実録路線やATG、角川映画が新しい流れを作った。

  29. 昭和戦前の映画 トーキーが来て、国が映画を管理した新着No.2

    昭和の前半は、傾向映画から『マダムと女房』に代表されるトーキーへ映画が変わり、PCLから東宝が生まれた時期である。1939年の映画法で製作と配給が許可制になり、戦争末期には映画会社の再編と製作本数の激減が起きた。

  30. 大正までの映画 活動写真が町に来て、弁士が語った新着No.1

    日本の映画は1896年の神戸と1897年の大阪の上映から始まり、日本人の撮影、専用の小屋、弁士、旧劇のスターと育った。大正に入ると舞台劇に近い映画を作り替える純映画劇運動が起き、1923年の関東大震災で東京の撮影所が打撃を受けた。

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