No.210新着 仁義なき戦い(東映・1973年) 獄中の手記から生まれ、やくざ映画の向きを変えた一本
広島のやくざ抗争を当事者の獄中手記から描いた東映作品で、1973年1月に公開された。深作欣二が監督、笠原和夫が脚本、菅原文太が主演し、東映のやくざ映画を任侠から実録へ向けた作品とされる。一方で、やくざを魅力的に描いたという批判もある。
本文と出典
あらまし
『仁義なき戦い』は、1973年1月13日に東映が公開したやくざ映画である。ウィキペディアによれば、監督は深作欣二、脚本は笠原和夫、撮影は吉田貞次、音楽は津島利章。上映時間は99分で、『女番長』と併映された。主演は菅原文太で、役は広能昌三。ほかに松方弘樹、渡瀬恒彦、田中邦衛、金子信雄、梅宮辰夫らが出ている。
舞台は戦後の広島県呉市である。復員した青年が、やくざ同士の争いに巻き込まれていく。実在の抗争をもとにしており、登場人物にも実在の人物がいる。
主なできごと
・1972年 飯干晃一の連載『広島やくざ・流血20年の記録 仁義なき戦い』が『週刊サンケイ』で始まる(5月19日号から全46回)
・1973年1月 第1作が公開される
・1973年4月 『広島死闘篇』が公開される
・1973年9月 『代理戦争』が公開される
・1974年1月 『頂上作戦』が公開される
・1974年6月 『完結篇』が公開される
くわしく 原作と手記
原作は、ジャーナリストで作家の飯干晃一が書いたノンフィクション小説である。もとになったのは、広島の抗争の当事者だった美能幸三が網走刑務所で書いた約700枚の手記だと、ウィキペディアは記す。飯干がこれを組み立て直して週刊誌に連載し、登場人物は実名で出た。コトバンクも、原作の副題を「美能幸三の手記より」とし、実際の抗争を生きた人物の手記に基づくと説明している。
映画の企画の始まりについては、記事によって語り方が違う。リアルサウンドの記事は、笠原和夫と東映の日下部五朗が、別の企画で飯干を訪ねたときに原稿のことを知り、映画化を考え始めたと書く。同じ記事によれば、呉を訪ねた笠原に、美能は映画化に反対だと伝えた。のちに笠原は、美能が戦時中の大竹海兵団での先輩だったと知ったという。なお、この記事は広告記事であり、枠組みを割り引いて読む必要がある。
ウィキペディアは別の経緯も書いている。東映社長の岡田茂が、『ゴッドファーザー』の大ヒットを受けて日本版のマフィア映画をねらい、映画化を決めたという。この点は、今回リアルサウンドの記事では確かめられなかった。
くわしく 脚本と演出
笠原和夫は1927年生まれ、2002年に亡くなった脚本家である。1954年に東映へ入り、1956年に社内のシナリオコンクールで一位になって脚本を書き始めた。『博奕打ち 総長賭博』『県警対組織暴力』『二百三高地』なども手がけている。『仁義なき戦い』シリーズでは、コトバンクによれば前4作を笠原が、第5作だけを高田宏治が書いた。
第1作の範囲について、リアルサウンドは、広島の抗争全体は一本に収まらないため、発端になった呉の争いに絞ったと伝える。物語は、善と悪がはっきり分かれた従来の任侠映画の型から離れている。
監督の深作欣二は1930年生まれで、2003年に亡くなった。1953年に東映へ入り、1961年に監督になった。ストップモーションやナレーションを生かした作風が知られる。ただし、手持ちカメラが『仁義なき戦い』だけの手法だと確かめられる資料は、今回は見つからなかった。深作の起用の経緯は、リアルサウンドの記事の中でも説明が揺れている。笠原が当初は反対したと書く一方、深作が脚本を読んで引き受けたとも書き、はっきりしない。
くわしく 菅原文太
主演の菅原文太は、1933年に仙台で生まれ、2014年に81歳で亡くなった。ウィキペディアによれば、1958年に新東宝に入り、新東宝の倒産後は松竹へ移り、1967年に東映へ移っている。のちに『トラック野郎』シリーズ(1975年から)、『太陽を盗んだ男』などに出た。ウィキペディアは、当初は渡哲也を主演に考えたが断られ、菅原に決まったと書く。
なぜ受けたのか
コトバンクは、このシリーズの成功で、東映のやくざ映画が任侠路線から暴力団の抗争を題材にする実録路線へ大きく変わったと説明する。ウィキペディアによれば、第1作は初日から記録的な大ヒットとなり、長く上映され、撮影中にシリーズ化も決まっていた。1973年中に三本、翌年に二本と、短い間隔で続編が出ている。
ただし、観客が何を求めていたのかについては、今回の資料に具体的な数字がなく、断定できない。リアルサウンドの記事にも、任侠映画の不振や観客層についての記述はなかった。したがって、興行収入や動員数は書かない。
評価の分かれる点
ウィキペディアによれば、肯定的な評価は、群集劇、青春映画、暴力映画のいずれの面からも出ている。キネマ旬報の「映画人が選ぶオールタイム・ベスト100 日本映画篇」(1999年)で第8位、「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」(2009年)で第5位に選ばれた。1973年のキネマ旬報ベスト・テンでは、読者選出の監督賞が深作、脚本賞が笠原、男優賞が菅原だったとある。
一方、娯楽性のためにやくざを魅力的に描き、犯罪者を美化したという批判もある。実在の人物がモデルだったため、関係者から事実と違うという声が出たことも、ウィキペディアは記す。
シリーズの数え方にも幅がある。5部作とする見方のほか、コトバンクは、深作が1973年から1976年にかけて計8作を手がけたと書く。『新・仁義なき戦い』など別名義の作品を含めるかどうかで、数が変わる。
くらさんの考察
手記という当事者の声が土台にあり、そこに、善悪を割り切らない脚本と、短い間隔で続く公開が重なったと考えられる。笠原が、反対していた美能の反応も含めて取材を重ねたことは、映画が「実際にあった争い」という重みを持つ理由の一つと考えられる。
同時に、実在の人物を扱った作品は、関係者の受け止めと作品の面白さが食い違いやすい。「美化」という批判と、ベスト・テンでの高い評価が同じ作品に並ぶのは、その食い違いの表れかもしれない。どちらが正しいかを決める前に、何を見て評価しているのかを分けて考える必要がある。
ジージへの問いかけ
・ジージが若いころ、東映の任侠映画と『仁義なき戦い』のあとの映画では、映画館の客席の空気は変わったと感じましたか。
・実在の出来事をもとにした映画で、事実とどこまで違ってよいと思いますか。
・菅原文太といえば『仁義なき戦い』と『トラック野郎』のどちらが先に思い浮かびますか。
出典
・ウィキペディア「仁義なき戦い」 https://ja.wikipedia.org/wiki/仁義なき戦い
・コトバンク「仁義なき戦い」 https://kotobank.jp/word/仁義なき戦い-689083
・リアルサウンド「『仁義なき戦い』はいかにして生まれたか」 https://realsound.jp/movie/2021/10/post-891208_2.html
・ウィキペディア「笠原和夫 (脚本家)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/笠原和夫_(脚本家)
・ウィキペディア「深作欣二」 https://ja.wikipedia.org/wiki/深作欣二
・ウィキペディア「菅原文太」 https://ja.wikipedia.org/wiki/菅原文太
動画
・【予告編】仁義なき戦い(東映シアターオンライン)https://www.youtube.com/watch?v=QA-ylAqoFTA
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