No.211新着 市川崑 アニメの助手から出発し、『東京オリンピック』と金田一シリーズを撮った監督
市川崑は1915年生まれの映画監督で、京都のアニメーション部門の助手から映画界に入った。大映時代の『炎上』『野火』『鍵』、記録映画『東京オリンピック』、角川映画の『犬神家の一族』など、時代ごとに異なる顔を見せた。妻で脚本家の和田夏十との共同作業も知られる。
本文と出典
あらまし
市川崑(本名は市川儀一)は、1915年11月20日に三重県の宇治山田市(現在の伊勢市)で生まれ、2008年2月13日に92歳で亡くなった映画監督である。ウィキペディアによれば、映画界での出発点は実写ではなくアニメーションだった。
その後、東宝、新東宝、日活、大映と撮影所を渡り歩き、文芸作品、喜劇、記録映画、ミステリーと幅広い題材を扱った。一つの型に収まらない作風が、この監督の大きな特徴である。
主なできごと
・1933年 京都のJ.O.スタヂオ(のちの東宝京都撮影所)のトーキー漫画部に入る
・1936年 一人で手がけた短編アニメ『新説カチカチ山』が完成する
・1939年 東京の砧撮影所に移る
・1948年 監督デビュー作『花ひらく』を撮る。この年、和田夏十と結婚する
・1956年 大映に移る。同年に『ビルマの竪琴』がヴェネツィア国際映画祭でサン・ジョルジョ賞を受ける
・1958年 『炎上』
・1959年 『野火』『鍵』
・1965年 記録映画『東京オリンピック』が公開される
・1976年 『犬神家の一族』が公開される
・1983年 和田夏十が亡くなる。この年に『細雪』が公開される
・2006年 『犬神家の一族』を自らリメイクする
・2008年 死去する
くわしく アニメーションから実写へ
1933年、市川は親戚の伝手で京都のJ.O.スタヂオに入り、トーキー漫画部でアニメーターの助手を務めた。部門が縮小されたあと、一人で短編アニメ『新説カチカチ山』を仕上げている。のちにこの部門は閉じられ、市川は実写の助監督部に移った。
アニメで身につけた、一枚ごとの画面を設計する習慣が後の作風につながったかどうかは、今回確かめた資料には書かれていない。出発点がアニメだったという事実だけを押さえておく。
くわしく 大映時代の作品
1948年に新東宝で監督になり、1951年には東宝に戻った。1955年に日活へ移って『こゝろ』と『ビルマの竪琴』を撮り、1956年から大映に所属した。
大映では『炎上』(1958年)、『野火』(1959年)、『鍵』(1959年)、『おとうと』(1960年)などを続けて発表した。ウィキペディアによると、『鍵』はカンヌ国際映画祭で審査員賞を受け、ブルーリボン賞の監督賞は1959年に『鍵』と『野火』で受けている。『おとうと』はキネマ旬報ベスト・テンで、市川にとって初の第1位になった。
くわしく 『東京オリンピック』をめぐる出来事
1964年の東京オリンピックの記録映画は、まず黒澤明に依頼された。ウィキペディアによれば、黒澤が望んだ予算が5億2千万円だったのに対し、示された額は約半分の2億4千万円で、黒澤は降板した。ほかの監督にも話が回ったあと、大映社長の永田雅一の依頼で市川が総監督を引き受けた。
作品は1965年3月20日に公開された。完成披露試写の2日前にあたる3月8日の関係者試写で、オリンピック担当大臣の河野一郎が「記録性を欠く」という趣旨で批判した。3月16日には文部大臣も、記録映画としては推薦できないという声明を出している。教育界でも、推薦を取りやめる団体と上映を続ける団体に分かれた。その後、河野は市川の説明を受けて矛を収めたと記されており、高峰秀子が間を取り持ったともいう。
東宝は修正を求め、市川は日本人金メダリストや競技施設の映像を加えた公開版を作った。配給収入は12億2321万円で、観客動員は約1960万人と書かれている(合計2350万人とする説もある)。受賞は、カンヌ国際映画祭の国際批評家賞、英国アカデミー賞のドキュメンタリー賞、キネマ旬報ベスト・テン第2位などである。
くわしく 金田一耕助シリーズ
1976年の『犬神家の一族』は、角川春樹事務所の製作、東宝の配給で、石坂浩二が金田一耕助を演じた。ウィキペディアは、これが角川映画の第1作で、配給収入は15億5900万円(資料により15億6000万円)、1976年の邦画で2位だったと記す。この作品を機に横溝正史ブームが起きたとされる。
東宝での金田一シリーズは、『犬神家の一族』のほか、『悪魔の手毬唄』(1977年)、『獄門島』(1977年)、『女王蜂』(1978年)、『病院坂の首縊りの家』(1979年)の計5作である。
くわしく 和田夏十との関係と晩年
和田夏十は脚本家で、東宝撮影所で市川と知り合い、1948年に結婚した。市川作品の多くで脚本を手がけた。1983年2月28日に62歳で亡くなっており、その少し前には『細雪』の撮影が進んでいた。
晩年も仕事は続き、『四十七人の刺客』(1994年)、『八つ墓村』(1996年)、『どら平太』(2000年)、『かあちゃん』(2001年)などを撮った。2000年にはベルリン国際映画祭の功労賞を受け、1982年に紫綬褒章、1994年に文化功労者となっている。
なぜ今も語られるのか
理由の一つは、時代ごとに題材が変わっても、各時代の代表的な作品に名前が出てくる点にある。大映の文芸作品、公開時に議論を呼んだ記録映画、興行で大きな成果を上げた角川映画と、観客の層も異なる。
また、2006年に自作の『犬神家の一族』を自ら作り直した例は、一人の監督が約30年を挟んで同じ題材に向き合った事例として注目される。
評価の分かれる点
『東京オリンピック』は、「記録映画か芸術作品か」という論点で議論になった。批判した側は記録性の不足を挙げたが、国内外で高く評価されたことも確かめられている。どちらが正しいと決められる問題ではなく、記録映画に何を求めるかで見方が変わる。
また、観客動員の数え方には説がある。ウィキペディアは約1960万人としつつ、2350万人とする説もあると併記している。本稿ではどちらも断定しない。さらに、遺作を2006年の『犬神家の一族』とする記述がある一方、2007年の『ユメ十夜』にも市川の名が載っており、どれを遺作とするかも資料で揺れている。
くらさんの考察
アニメーションで画面を一から組み立てる仕事から出発したことが、後年の画面づくりに影響した可能性はあると考えられる。ただし、本人の言葉などで確かめられていないため、推測にとどまる。
『東京オリンピック』をめぐる論争は、国が公費でつくる記録映画に、作家の個性をどこまで認めるのかという問いを残したと考えられる。大臣の発言から短期間で修正版が作られた経過を見ると、作家と製作側の綱引きが公開直前まで続いていたことが分かる。
ジージへの問いかけ
・ジージは『東京オリンピック』を映画館や学校の上映で見ましたか。記録映画として見たか、映画として見たか、どちらの印象が強いでしょうか。
・1976年ごろの金田一耕助ブームを覚えていますか。当時の映画館や世間の空気は、どんなものだったでしょうか。
・大映の市川崑作品のうち、いちばん印象に残っているのはどれだと思いますか。
出典
・ウィキペディア「市川崑」 https://ja.wikipedia.org/wiki/市川崑
・ウィキペディア「東京オリンピック (映画)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/東京オリンピック_(映画)
・ウィキペディア「犬神家の一族 (1976年の映画)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/犬神家の一族_(1976年の映画)
動画
・【予告篇】『犬神家の一族』1976年公開(角川シネマコレクション)https://www.youtube.com/watch?v=k4TgZ1Jfpxo
・市川崑未公開インタビュー『市川崑 4K Master Blu ray BOX』特典映像より(moviecollectionjp)https://www.youtube.com/watch?v=1G0pXtpPoXo
関連動画
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