No.213新着 幕末太陽傳(日活・1957年) 落語の居残りを幕末の品川に置いた、川島雄三の群像喜劇
川島雄三が監督し、1957年7月14日に日活が公開した喜劇。古典落語「居残り佐平次」を下敷きに、文久2年(1862年)の品川の遊郭を舞台にした。日活の製作再開三周年記念作品で、同年のキネマ旬報ベスト・テンでは日本映画の第4位に入った。
本文と出典
あらまし
『幕末太陽傳』は、1957年7月14日に日活が公開したモノクロの喜劇である。国立映画アーカイブの映画資料データベースによれば、監督は川島雄三、製作は山本武、撮影は高村倉太郎、音楽は黛敏郎、上映時間は110分。脚本は田中啓一、川島雄三、今村昌平の名義で、今村は助監督も務めている。
主人公の佐平次を演じたのはフランキー堺である。ほかに左幸子、南田洋子、芦川いづみ、金子信雄らが出ており、高杉晋作を石原裕次郎、久坂玄瑞を小林旭が演じた。
舞台は文久2年(1862年)、東海道品川宿の遊郭「相模屋」である。日活の公式ページは、一文無しの佐平次が派手に遊んだあとそのまま居残りとして店に居着き、機転で女郎や客のもめごとを収めていく話と紹介している。同じ宿には、攘夷派の高杉晋作らも泊まっている。
主なできごと
・1954年 日活が撮影所を再興し、自社製作を再開する
・1956年 『太陽の季節』が大ヒットし、日活は石原裕次郎ら若手を軸にした路線へ進む
・1957年7月14日 『幕末太陽傳』が公開される
・1957年 キネマ旬報ベスト・テン日本映画の第4位に選ばれる(ウィキペディアによる)
・1957年 毎日映画コンクールの音楽賞を黛敏郎が受ける(同)
・2011年12月23日 デジタル修復版が全国公開される(ウィキペディアによる。コトバンクは修復を2012年とも書く)
・2017年 宝塚歌劇団の雪組が舞台化して初演する
くわしく 日活の再出発と、川島の立場
日活は戦時中に製作部門を大映へ統合され、配給専門になっていた。ウィキペディアによれば、1954年に撮影所を再興して自社製作を再開し、技術部門は東宝から、監督部門は松竹大船撮影所から人を集めた。川島雄三も松竹大船から移ってきた一人である。作品の冒頭に掲げられた「製作再開三周年記念」の文字は、この再開に由来する(コトバンク)。
同じウィキペディアの記述では、日活は1956年の『太陽の季節』の大ヒット以後、石原裕次郎らによる若者向けの作品へ舵を切っていた。川島らの脚本は幕末を舞台にしながら「太陽族」を意識させるもので、完成までに会社上層部との軋轢が続いたとされる。高杉晋作の役は当初、三橋達也に決まっていたが、本人が辞退して石原が演じた。川島は本作を最後に日活を離れ、東京映画へ移っている。
くわしく 落語から借りたもの
主人公は古典落語『居残り佐平次』から取られている。コトバンクの解説は、『品川心中』『三枚起請』『お見立て』など、遊郭を舞台にした別の演目の要素も随所に入っていると記す。一つの噺をなぞるのではなく、廓噺をいくつも縫い合わせて一本の映画にしたことになる。
構成は、平凡社の百科事典の解説が「グランド・ホテル形式」と呼ぶものである。一軒の宿に居合わせた人々の出来事を並行して描く形で、相模屋の主人夫婦、女郎たち、客、志士たちが入れ替わりに現れる。勤皇派と佐幕派がぶつかる武士の世界と、町人の世界が一つの店の中で絡み合う。
風俗考証には木村荘八、資料提供には宮尾しげをと安藤鶴夫が名を連ねている(国立映画アーカイブの映画資料データベース)。江戸の風俗や落語に通じた人々の協力で、品川の遊郭の細部が組まれたと読める。
くわしく 結末をめぐる逸話
コトバンクの日本大百科全書の項目によれば、川島は当初、佐平次が墓場のセットを突き抜けて現代の北品川へ駆け出していく結末を考えていた。しかしスタッフや俳優の強い反対にあい、海沿いの道を逃げていく現行の場面に変わったという。国立映画アーカイブの上映会解説(2007年)も、川島が時代劇のセットを抜けて現代の町へ走り出す結末案を出したが実現しなかった、と書いている。
二つの資料は、案の中身も実現しなかったことも一致している。実際の場面の細かい運びはここでは書かない。
なぜ今も語られるのか
キネマ旬報の日本映画オールタイムベストでは、1999年に第5位、2009年に第4位と、ウィキペディアは記す。コトバンクも「オールタイムベスト100日本映画編」の第5位としている。公開当時のベスト・テン第4位とあわせ、公開直後から後年まで、評価が途切れていないことが確かめられる。
平凡社の解説は、川島が「日本の現代を描けば、究極的には喜劇になる」と考えていたと伝える。幕末の動乱期の生き方を描きながら、現代の社会が見えてくる作品とされている。ただし同じ解説は、川島のドライで毒のある笑いは大衆受けしなかったとも書く。本作の興行成績は、今回開いた資料では確かめられなかったので書かない。
デジタル修復版が2011年に公開されたこと、2017年に宝塚歌劇団が舞台化したことは、半世紀以上たっても新しい観客に届いている例である。
評価の分かれる点
資料によって揺れるのは、主に表記と年の扱いである。題名は「幕末太陽傳」と「幕末太陽伝」の二通りがあり、国立映画アーカイブのデータベースは両方を載せている。主人公の名も「佐平次」と「左平次」が混在する。デジタル修復版の年は、ウィキペディアが2011年12月公開、コトバンクが2012年の修復作品とし、同じコトバンクの中にも「2011年冬」の記述があるため、修復の完成年と公開年を分けて見る必要がある。
作品の位置づけも一様ではない。喜劇の傑作とする見方がある一方、平凡社の解説が述べるとおり、同時代の観客には乗りにくい笑いだったという指摘もある。国立映画アーカイブの解説は、全体に虚無感がにじむとも書く。陽気な喜劇と読むか、虚無を含む作品と読むかは、観る側に委ねられている。
くらさんの考察
日活が若者向けの路線へ進む時期に、川島が幕末を舞台にして「太陽族」を意識させる脚本を書いたことは、会社の流れに乗りながら別の方向を向いた試みだったと考えられる。軋轢が続いたという記述は、その緊張の表れかもしれない。
落語の複数の演目を縫い合わせたことは、一人の主人公に遊郭の出来事を集めるための工夫だったと考えられる。ただし、これは資料に書かれた意図ではなく、くらさんの推測である。
結末の案が反対で退けられたと伝わることも興味深い。現代へ走り出す案が通っていれば、作品の幕末という枠そのものが揺らいだはずである。どちらが良かったかは、案の細部が資料に残っていない以上、決められない。
ジージへの問いかけ
・ジージが映画館や名画座で観た日活の作品は、石原裕次郎の現代劇と『幕末太陽傳』のような時代ものでは、客席の雰囲気が違いましたか。
・落語を知っているほうが楽しめる映画だと思いますか、それとも知らなくても楽しめると思いますか。
・フランキー堺といえば、ジージはまずどの映画やテレビの姿を思い浮かべますか。
出典
・ウィキペディア「幕末太陽傳」 https://ja.wikipedia.org/wiki/幕末太陽傳
・コトバンク「幕末太陽傳」(日本大百科全書、デジタル大辞泉プラス) https://kotobank.jp/word/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E5%82%B3-892956
・コトバンク「幕末太陽伝」(世界大百科事典) https://kotobank.jp/word/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E4%BC%9D-731147
・国立映画アーカイブ 映画資料データベース「幕末太陽傳」 https://nfad.nfaj.go.jp/det.php?data_id=1668
・国立映画アーカイブ 上映会情報「映画監督 川島雄三」解説 https://www.nfaj.go.jp/FC/NFC_Calendar/2007-06-07/kaisetsu_21.html
・日活 作品ページ「幕末太陽傳(幕末太陽伝)」 https://www.nikkatsu.com/movie/20196.html
動画
・『幕末太陽傅 デジタル修復版』予告編(【公式】日活フィルム・アーカイブ)https://www.youtube.com/watch?v=Ru0cr7n7XHg
関連動画
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