No.216新着 お葬式(ATG・1984年) 伊丹十三が51歳で撮った初監督作と、断られた末の大ヒット
『お葬式』は1984年11月17日にATG配給で公開された、伊丹十三の初監督作である。妻の父の葬儀で喪主を務めた体験から脚本を書き、大手の配給を断られながら、配給収入12億円のヒットになった。
本文と出典
あらまし
『お葬式』は、1984年11月17日に公開された日本映画である。映画.comの作品情報によれば、製作年は1984年、上映時間は124分、配給はATG(日本アート・シアター・ギルド)で、監督と脚本は伊丹十三が務めた。
主人公は、CM撮影の最中に妻の父の訃報を受け取る俳優夫婦である。夫の井上侘助は山崎努、妻の雨宮千鶴子は宮本信子が演じた。侘助は初めて喪主を引き受け、海辺の家に集まる親族や知人に囲まれながら、通夜から葬式までの段取りに追われていく。
死という重い題材を、手順に戸惑う人々のおかしみで描いたところに、この作品の特徴がある。伊丹十三にとっては、本格的な監督作の第1作にあたる。
主なできごと
・1933年 伊丹十三、京都市に生まれる(父は映画監督の伊丹万作)
・1960年 大映に入社し、「伊丹一三」の名で俳優活動を始める
・1965年 ロケ先での出来事をつづったエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』を出版する
・1984年11月17日 『お葬式』がATG配給で公開される
・1984年 キネマ旬報ベスト・テンの日本映画第1位に選ばれる(第58回)
・1985年 『タンポポ』を公開する
・1985年 第8回日本アカデミー賞で最優秀作品賞などを受ける
・1987年 『マルサの女』を公開する
くわしく 俳優・文筆家が監督になるまで
ウィキペディアの「伊丹十三」の項によれば、伊丹は1933年に京都市で生まれ、本名は池内義弘という。1960年に大映へ入り、伊丹一三の名で俳優を始めた。外国映画にも出ている。
1965年のエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』が好評を得たあと、1970年代にはテレビマンユニオンに加わり、ドキュメンタリー番組の制作やレポーターを務めた。雑誌の編集主幹、装丁やレタリングなどのデザイン、イラスト、CMへの出演と企画も手がけている。
つまり伊丹は、映画の現場だけで育った監督ではない。俳優、文筆、テレビ、デザインと渡り歩いた経験を持ち、51歳で初めて監督席に座った。
くわしく 喪主の体験から1週間で書いた脚本
映画.comとウィキペディアが共通して伝えるところでは、脚本は伊丹が妻・宮本信子の父の葬儀で喪主を務めた体験をもとにしている。ウィキペディアによれば、シナリオは1週間ほどで書き上げられた。
撮影は神奈川県湯河原町にある伊丹の別荘(元の自宅)で行われた。作中の海辺の家は、実際の家を使って撮られたことになる。
スタッフでは、撮影が前田米造、音楽が湯浅譲二、助監督が平山秀幸で、映画.comは白黒部分の撮影として浅井愼平の名も挙げている。出演者には、山崎努と宮本信子のほか、菅井きん、大滝秀治、財津一郎、津川雅彦、笠智衆がいる。
製作費は1億円で、ウィキペディアは、愛媛県の菓子会社「一六本舗」が出資したと記している。
くわしく 配給を断られ、ATGから全国へ
ウィキペディアによれば、このタイトルだけで大手の映画会社はどこも配給を断った。そこでATGが配給して公開された。ATGは芸術性の高い作品を単館中心に上映してきた会社である。
公開当初はヒットを期待されていなかったという。ところが予想を超える入りになり、ウィキペディアの記述では、ATGの親会社である東宝の番線(上映のための系統)に乗って全国公開へ広がった。同じ記述が、配給収入を12億円と記している。製作費1億円との差が大きい作品である。
なお、この「親会社」「番線」の説明は、今回確かめられたウィキペディアの一つにしか見当たらない。ATGと東宝の関係の細部は、ほかの資料での裏づけを取れていない。
なぜ今も語られるのか
受賞の多さが、まず当時の評価を示している。コトバンクとウィキペディアによれば、キネマ旬報ベスト・テン(第58回)では日本映画の第1位で、伊丹が監督賞、山崎努が主演男優賞を受けた。
第8回日本アカデミー賞では、最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀脚本賞、最優秀主演男優賞(山崎努)、最優秀助演女優賞(菅井きん)が贈られた。ウィキペディアにはこのほか、ブルーリボン賞の監督賞、報知映画賞の作品賞、毎日映画コンクールの日本映画優秀賞や監督賞も載っている。
もう一つの理由は、伊丹のその後である。ウィキペディアの一覧では、翌1985年の『タンポポ』、1987年の『マルサの女』と、監督作が続いた。『お葬式』は、その出発点として語られる作品である。
評価の分かれる点
ウィキペディアは、松田優作がこの作品を「血が通っていない」と批判し、知人の角川春樹に「伊丹さんの映画は信用できない」と語っていたという逸話を載せている。賞を総なめにした作品にも、距離を置く見方があったことになる。ただし、この逸話は一つの記事に載る伝聞であり、発言の場面までは確かめられていない。
同じ項には、伊丹が蓮實重彦の理論を意識し、1930〜40年代のハリウッド映画の場面や構図を多く引用したという記述もある。これを巧みな仕掛けと見るか、頭で組み立てた映画と見るかは、観る人によって分かれるだろう。
くらさんの考察
大手が断った理由が題名にあったという点は興味深い。縁起が悪いという感覚が、映画の売り方を決めていたと考えられる。同じ題名が、公開後には観客の関心を引く力になったと見ることもできる。
笑いと死を同じ画面に置いたことが、当時の観客に新しく映った可能性がある。ただし、観客がどう受け取ったかを示す資料は今回確かめていないので、推測にとどまる。
初監督作が俳優や文筆家の経歴の延長にあることも、見逃せない。伊丹は実体験を材料にした。映画の現場で修業を積んだ人とは別の道から入ったからこそ、身近な出来事を題材に選べたと考えられる。
ジージへの問いかけ
・ジージが身内の葬儀で、段取りに戸惑ったり、思わず笑ってしまったりした場面はありましたか。
・1984年の暮れ、『お葬式』が話題になったときのことを覚えていますか。映画館の客席や世間の様子はどうでしたか。
・ほかの伊丹作品では『タンポポ』や『マルサの女』をご覧になりましたか。最初の『お葬式』との違いはどこにあると思いますか。
出典
・映画.com「お葬式」 https://eiga.com/movie/35226/
この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが映画QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。