No.72新着 脚本と脚本家 橋本忍、野田高梧、倉本聰、宮藤官九郎の仕事
脚本は映画の設計図であり、版を重ねて決定稿になる。橋本忍は黒澤明との共同執筆、野田高梧は小津安二郎との共作、倉本聰と宮藤官九郎はテレビや舞台を経て映画に関わった。
本文と出典
あらまし
脚本は、映画の設計図である。ただ文字で書いてあるだけではなく、予算の見積もりにも、監督や俳優、撮影、美術の各部署が同じ絵を思い描くためにも使われる。日本ではこれを「シナリオ」とも呼ぶ。ここでは、脚本の書かれ方と、代表的な四人の脚本家の仕事を、確かめられた範囲で紹介する。
主なできごと
・1920年 松竹が米国から招いたヘンリー・小谷が「シナリオ」という言葉を使い始めたとされる
・1936年 野田高梧がシナリオライター協会の初代会長に就く
・1937年 全国組織の日本映画作家協会が発足する
・1949年 野田高梧が小津安二郎との共作『晩春』で毎日映画コンクール脚本賞を受ける
・1950年 橋本忍が書いた脚本をもとにした『羅生門』が公開される
・1950年 社団法人シナリオ作家協会が設立される
・1965年 現在の協同組合日本シナリオ作家協会が設立される
・2001年度 宮藤官九郎が『GO』で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受ける
・2018年 橋本忍が100歳で死去する
・2026年 倉本聰が9月18日に91歳で死去する(発表は9月28日)
くわしく 脚本の書かれ方
映画の脚本は、場所と時間を示す柱書き、台詞、動きや情景を書くト書きでできている。従来は200字詰めの原稿用紙に手書きされ、その状態を「ペラ」とも呼んだ。いまはテキストエディタが多い。
最初から完成形が出てくるわけではない。監督やプロデューサーとの打ち合わせと並行して書き進め、準備稿、改定稿、決定稿と版を重ねる。撮影中に直しが入ることもあり、できあがった作品が決定稿と大きく違う場合もある。
複数の脚本家が書くこともある。この場合、人数や監督の関わり方は、印税や二次使用料の配分に影響するとされる。
くわしく 橋本忍と野田高梧
橋本忍は1918年に兵庫県で生まれた。結核で軍隊を除隊し、療養中に映画雑誌を読んで脚本に関心を持った。伊丹万作に習作を送って師事し、会社勤めを続けながら書いていた。その脚本に黒澤明が目を留め、手を入れて映画にしたのが『羅生門』である。ヴェネチア映画祭でグランプリを受賞し、橋本は専業の脚本家になった。以後、『生きる』『七人の侍』『蜘蛛巣城』『隠し砦の三悪人』など、1950年代の黒澤作品に共同脚本で関わった。のちに『砂の器』『日本沈没』『八甲田山』も手がけた。
橋本自身が書いた『私と黒澤明 複眼の映像』(文藝春秋、2006年)は、黒澤との共同脚本の現場を書いた本で、『羅生門』は橋本の第一稿をもとにしたと紹介されている。小国英雄が加わった『生きる』『七人の侍』でも橋本が先陣を務めたという。ただし、共同作業の細かな進め方は、出版社の紹介ページからは確かめられなかった。山田洋次は、橋本が脚本を「のたうち回る」ように苦しんで作っていたと語ったと報じられている。
野田高梧は1893年に函館で生まれ、1924年に松竹蒲田撮影所に入った。小津安二郎の初監督作品の脚色を1927年に手がけて以来の付き合いで、1949年の『晩春』から小津の遺作まで共作を続けた。長野県蓼科の山荘「雲呼荘」が、1957年ごろから小津との主な仕事場になったという。『東京物語』(1953年)の脚本も野田の仕事である。1948年に『シナリオ方法論』、1952年に『シナリオ構造論』を出した。
くわしく 倉本聰と宮藤官九郎
倉本聰は1935年に生まれ、1959年に東京大学を卒業してニッポン放送に入社した。会社に内緒で脚本を書き、1963年に退社して脚本家になった。1977年に北海道の富良野へ移り、テレビドラマ『北の国から』で知られた。映画の脚本も書き、『駅 STATION』などがある。1982年に日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受けた。2026年9月18日に多臓器不全のため自宅で亡くなったと、倉本財団が9月28日に発表した。
宮藤官九郎は1970年に宮城県で生まれ、劇団「大人計画」に所属した。2000年放送のテレビドラマ『池袋ウエストゲートパーク』の脚本で名を上げた。映画では『GO』(2001年)で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受けた。2005年に『真夜中の弥次さん喜多さん』で映画監督にもなっている。
なぜ今も語られるのか
映画の脚本は、書いた人が一人とは限らない。黒澤組のように複数で練る方法、小津と野田のように長年同じ組み合わせで書く方法、倉本のようにテレビから映画へ移る道、宮藤のように舞台から入る道がある。脚本家の出身や仕事場がそれぞれ違うことが、日本映画の語り口の幅になっていると考えられる。
評価の分かれる点
脚本が先か原作が先か、という問いには一つの答えがない。原作がある作品は「脚色」と呼ばれ、原著作者の意向がなければできない。橋本忍の『羅生門』は、会社勤めの傍らで書いた橋本の脚本を黒澤明が見つけて映画にした例である。ただし、原作と脚本のどちらが先かを総括した資料は、今回は確かめられなかった。
くらさんの考察
橋本忍の言葉として伝わる「忍耐だけが頼りの仕事」という脚本観と、野田高梧が方法論や構造論を本にしたことは、脚本の仕事が経験を積んで言葉にできる技術でもあることを示していると考えられる。
ジージへの問いかけ
・映画を観て、脚本家の名前を気にしたことはありましたか。「この人の脚本だから観る」という作品はありますか。
・『北の国から』のようなテレビの脚本と、映画の脚本では、観ていて違いを感じましたか。
出典
・橋本忍(Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/橋本忍
・「映画界最強の脚本家」橋本忍さん逝く(J-CASTニュース、2018年7月) https://www.j-cast.com/2018/07/20334246.html?p=all
・私と黒澤明 複眼の映像(文藝春秋) https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163675008
・野田高梧(Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/野田高梧
・日本シナリオ作家協会(Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/日本シナリオ作家協会
・脚本(Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/脚本
・倉本聰(Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/倉本聰
・脚本家・倉本聰さん死去 91歳(デイリースポーツ、2026年9月28日) https://www.daily.co.jp/gossip/2026/09/28/0020868796.shtml
・宮藤官九郎(Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/宮藤官九郎
動画
・小津安二郎が「失敗」と語った作品 意見求めた脚本家の野田高梧 脚本など紹介 三重・歴史民俗資料館(【公式】三重テレビNEWS)https://www.youtube.com/watch?v=8Se4UEpx7IE
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