映画会社・映画業界・映画の作り方映画はどこで生まれ、どう観客に届くのか

撮影所が俳優も監督も抱えた時代から、製作委員会と配信の今まで。映画会社の移り変わり、映画館と興行のしくみ、 企画・脚本・撮影・編集・音楽・公開までの流れ、映画祭と賞についての資料です。

映画会社と業界

  1. 日本の映画興行の数字 ピークの1958年と現在No.59

    映連の統計では、年間入場者数のピークは1958年の約11億2,745万人で、2025年は約1億8,876万人にあたる。興行収入の歴代ランキングは、配給収入と興行収入が混ざるため、単純には比べられない。

    登録 2026年10月29日 13:38

  2. 映画館の移り変わり 封切館からシネコンまでNo.58

    日本のスクリーン数は1960年の7,457をピークに減り、1993年に1,734まで落ちたあと、シネコンの登場で増えた。2025年は3,697で、うちシネコンが3,305である。

    登録 2026年10月29日 13:38

  3. 製作委員会方式 映画の資金を分け合う仕組みと弱点No.57

    製作委員会方式は、複数の会社が出資し、作品の権利を共同で持つ仕組みである。民法上の任意組合とされ、リスクを分けられる反面、権利の整理に手間がかかる。映画では1990年代に主流になったと説明される。

    登録 2026年10月29日 13:38

  4. 角川書店と角川映画 本と映画を組み合わせた宣伝No.56

    角川春樹は1976年の『犬神家の一族』で映画製作に入り、文庫の宣伝と映画の宣伝を一つにするメディアミックスを日本映画に持ち込んだ。1993年に春樹が角川書店を去り、2002年には大映の映画事業を引き継いだ。

    登録 2026年10月29日 13:38

  5. 大映と新東宝 倒産した二社と、その後の行方No.55

    大映は1942年の戦時統合で生まれ、永田雅一の下で『羅生門』などを世に出したが、1971年に破産した。新東宝は東宝争議から1947年に生まれ、1961年に倒産した。大映の名は徳間書店を経て、2002年に角川書店へ引き継がれた。

    登録 2026年10月29日 13:38

  6. 日活 創立1912年、石原裕次郎からロマンポルノへNo.54

    日活は1912年に4社の合併で生まれた日本で最も古い映画会社の一つである。戦時に製作部門を失い、1954年に製作を再開して石原裕次郎の青春映画で伸びたが、1971年からはロマンポルノで生き延びた。会社更生を経て、今は日本テレビとスカパーJSATが主な株主である。

    登録 2026年10月29日 13:38

  7. 東映 京都撮影所と時代劇、任侠から現在までNo.53

    東映は1951年に出発し、5年で配収トップに立った。時代劇、任侠、実録、アニメ、テレビ、ビデオと、その時代に売れる路線へ次々と乗り換えて生き延びた会社である。

    登録 2026年10月29日 13:38

  8. 松竹 蒲田から大船へ、歌舞伎の会社が作った映画No.52

    松竹は歌舞伎などの興行から出発し、1920年に映画製作を始めた会社である。蒲田、大船の撮影所から多くの監督を出したが、2000年に大船撮影所を閉じた。今は歌舞伎興行と映画の配給・興行を柱にしている。

    登録 2026年10月29日 13:38

  9. 東宝 劇場から出発し、特撮とアニメで続く会社No.51

    東宝は映画会社として生まれたのではなく、東京宝塚劇場という興行会社として1932年に始まった。写真化学研究所(PCL)などと一緒になって製作・配給・興行を一社で行う形ができ、特撮、喜劇シリーズ、アニメ配給で時代ごとに稼ぎ方を変えてきた。

    登録 2026年10月29日 13:38

映画の作り方

  1. フィルムからデジタルへ 撮影と上映の変化と、フィルムを残すということNo.78

    映画館は2010年代初めにフィルム映写機からDCPというデジタル上映に移った。国立映画アーカイブは、デジタル保存には費用と消失の危険があるとして、フィルム原版を残す立場を取っている。

    登録 2026年10月29日 13:38

  2. 映倫とレイティング 検閲ではなく、映画界の自主規制という仕組みNo.77

    映倫は映画界が設けた第三者による審査機関で、公開前に作品をG、PG12、R15+、R18+に分ける。成り立ちには占領期の検閲と、1956年の太陽族映画をめぐる批判がある。

    登録 2026年10月29日 13:38

  3. 配給と宣伝 映画を観客に届ける仕事と、ブロックブッキングの時代No.76

    配給会社は買い付け、宣伝、上映用素材の供給、映画館との契約を担う。かつての日本はブロックブッキングが主流で、1980年代にミニシアターが単館での公開を広げた。

    登録 2026年10月29日 13:38

  4. 助監督・制作・美術・衣装・メイク 現場を支えるスタッフと、撮影所システムの終わりNo.75

    日本の現場では、技師と助手の組で部署が成り立つ。助監督は監督への道でもあったが、1971年ごろに撮影所の専属制が崩れ、フリーの時代に移った。

    登録 2026年10月29日 13:38

  5. 編集と音楽 映像をつなぎ、音を重ねる仕事No.74

    編集は撮影した素材を選んで組み立てる仕事で、フィルムからデジタルに変わった。映画音楽では伊福部昭がゴジラの音を作り、武満徹は邦楽器やテープ音楽を持ち込み、久石譲は宮崎駿や北野武の作品に関わった。

    登録 2026年10月29日 13:38

  6. 撮影・照明・録音の仕事 画と音をつくる技師たちNo.73

    日本では撮影、照明、録音はそれぞれ技師が責任者となって分担してきた。宮川一夫は『羅生門』で太陽を撮り、『おとうと』で銀残しを使った。木村大作は助手から撮影者になり、監督にもなった。

    登録 2026年10月29日 13:38

  7. 脚本と脚本家 橋本忍、野田高梧、倉本聰、宮藤官九郎の仕事No.72

    脚本は映画の設計図であり、版を重ねて決定稿になる。橋本忍は黒澤明との共同執筆、野田高梧は小津安二郎との共作、倉本聰と宮藤官九郎はテレビや舞台を経て映画に関わった。

    登録 2026年10月29日 13:38

  8. 映画ができるまで 企画から公開までの道のりと、製作委員会方式という日本の仕組みNo.71

    映画は企画、資金集め、撮影準備、撮影、仕上げ、配給、公開の順に進む。日本では複数の会社が出資する製作委員会方式がよく使われ、製作側と配給側でお金の流れが分かれる点に特徴がある。

    登録 2026年10月29日 13:38

映画祭と賞

  1. 日本の映画賞 日本アカデミー賞、キネマ旬報、毎日映画コンクール、ブルーリボン賞の違いNo.163

    日本の主な映画賞は、誰が選ぶか、いつ始まったかがそれぞれ違う。キネマ旬報は1924年、毎日映画コンクールは1946年、ブルーリボン賞は1950年度、日本アカデミー賞は1978年に始まった。

    登録 2026年10月29日 13:38

  2. アカデミー賞と日本 名誉賞の時代から『ゴジラ-1.0』、2026年の授賞式までNo.162

    日本映画のアカデミー賞は、1950年代の名誉賞に始まり、2009年の『おくりびと』、2022年の『ドライブ・マイ・カー』、2024年の『ゴジラ-1.0』などへ続く。2026年3月の第98回の結果も確かめた範囲で記す。

    登録 2026年10月29日 13:38

  3. 世界三大映画祭と日本映画 羅生門から万引き家族まで、受賞の歴史No.161

    日本映画はヴェネツィア、カンヌ、ベルリンの三つの映画祭で、1950年代から最高賞を受けてきた。確かめられた受賞を年順に並べ、2026年のカンヌまでの動きを確認できた範囲で記す。

    登録 2026年10月29日 13:38