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No.134新着 香港映画とアジア映画 カンフー、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、台湾の新しい波

香港映画は1920年代に始まり、1960年代のショウ・ブラザーズ、1970年代のブルース・リー、1978年のジャッキー・チェンの出世作を経て広がった。日本ではジャッキー人気が大きく、台湾ではニューシネマが同じころ生まれた。

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登録日時
2026年10月29日 13:38
出典を確かめた日
2026年10月29日
分野
世界の映画
立場
事実・データ
タグ
洋画新着海外とのつながり新着監督新着男優新着
作品・人物
ショウ・ブラザーズ、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、侯孝賢、エドワード・ヤン
資料の種類
事典・概説
年代
1920年代〜2000年

本文と出典

あらまし

香港は、アジアで長く映画を作り続けてきた土地である。1960年代に日本の監督や撮影技師が招かれ、1979年には日本で『酔拳』が大ヒットした。日本映画と近い関係にあった。ここでは、香港の歴史と、同じ中華圏で1980年代に起きた台湾の動きを並べて見る。

主なできごと

・1922年 香港初の映画製作会社が生まれる
・1949年 『黄飛鴻傳』が公開される。素手の戦いを描いた初のカンフー映画として知られる
・1959年 邵逸夫(ランラン・ショウ)がショウ・ブラザーズを設立する
・1970年 ゴールデン・ハーベストが設立される
・1971年 ブルース・リーが『ドラゴン危機一発』に出る契約を結ぶ
・1973年7月20日 ブルース・リー、香港で死去(32歳)
・1978年 ジャッキー・チェン『スネーキーモンキー 蛇拳』『ドランクモンキー 酔拳』
・1979年 日本で『酔拳』が大ヒット
・1982年 台湾で『光陰的故事』が公開され、台湾ニューシネマの始まりとされる

くわしく ショウ・ブラザーズの時代

ウィキペディアによれば、1941〜45年の日本軍の占領期に、香港では映画が一本も作られなかった。戦後の1959年にショウ・ブラザーズが設立され、1966年にキン・フー監督の『大酔侠』を先駆けに、剣劇とカンフーの映画へ方向を転換した。1960年代には日活や東宝から井上梅次、中平康、村山三男らの監督を招き、撮影技師の西本正の力でシネマスコープ(ショウ・スコープ)の開発も進めた。日本の技術が、香港の黄金期を支えた側面がある。
一方、キン・フーの『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』は、1968年に北海道だけで日本公開され、ヒットしなかったと記されている。日本でも、すぐに受け入れられたわけではない。

くわしく ブルース・リーとジャッキー・チェン

ゴールデン・ハーベストは、1971年にブルース・リーと1本1万米ドルで2本の主演契約を結んだ。出演作は、『ドラゴン危機一発』(1971年)、『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)、『ドラゴンへの道』(1972年)、『燃えよドラゴン』(1973年、死後の公開)と並ぶ。リーは1973年に32歳で亡くなった。
ジャッキー・チェンは1954年4月7日に香港で生まれた。1978年の『蛇拳』『酔拳』で、コメディを交えた作風により香港のスターの座を固めたとされる。日本では1979年に『トラック野郎・熱風5000キロ』との併映で『酔拳』が公開されて大ヒットし、配給収入は約9億3000万円に達した。その後も「拳シリーズ」が続き、1980年代は「ジャッキーフィーバー」と呼ばれる人気になった。雑誌『ロードショー』の「好きな俳優」投票で、6年連続の1位だったとされる。ハリウッド進出作には『キャノンボール』(1981年)、『レッド・ブロンクス』(1995年)、『ラッシュアワー』(1998年)がある。2016年にはアカデミー名誉賞を受けた。

くわしく 台湾ニューシネマ

台湾ニューシネマは、1980年代から1990年代にかけて展開された若手監督の動きである。1982年に楊徳昌ほか4人の監督によるオムニバス『光陰的故事』が最初の作品として公開された。台湾の日常や社会問題を写実的に描き、方言を台詞に使い、物語の筋をはっきりさせず、ゆったりとしたテンポの作品が多い。侯孝賢には『冬冬の夏休み』(1984年)、『童年往事 時の流れ』(1985年)、『恋恋風塵』(1986年)、『悲情城市』(1989年)がある。楊徳昌には『台北ストーリー』(1985年)、『牯嶺街少年殺人事件』(1991年)、『ヤンヤン 夏の想い出』(2000年)がある。日本とのつながりでは、侯孝賢の『珈琲時光』に歌手の一青窈が主演した。

なぜ今も語られるのか

香港は、商業的な娯楽を極めた例である。台湾は、商業とは距離をおいた写実の例である。同じ中華圏で、両極の映画が同時期に力を持った。それぞれが日本の観客に別の窓口から入ってきた点が興味深い。

評価の分かれる点

香港映画の衰退の理由は、一つに決められない。製作本数は、1993年の年間234本から2013年には43本に減ったとされるが、1997年の返還後にハリウッドへ移る人と、中国映画界に合流する人がいたという説明にとどまる。原因を産業構造か、市場か、人材流出かに絞ることは今回の資料ではできない。

くらさんの考察

日本の技術者と香港の映画会社の交流は、日本の撮影所の力が強かった時代を示すと考えられる。日本が与える側にいた時期が、戦後に確かにあったことになる。ただし、招かれた人数や期間は今回確かめておらず、断定はしない。

ジージへの問いかけ

・『酔拳』が公開されたころの映画館の様子を覚えていますか。
・ブルース・リーとジャッキー・チェンでは、どちらが好みだったでしょうか。

出典

・香港映画(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/香港映画
・ブルース・リー(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/ブルース・リー
・ジャッキー・チェン(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャッキー・チェン
・台湾ニューシネマ(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/台湾ニューシネマ

動画

・映画『燃えよドラゴン 日本劇場公開版 4Kリマスター』予告|2023年11月23日(木・祝)から期間限定上映(ワーナー ブラザース 公式チャンネル)https://www.youtube.com/watch?v=D_QFvSjimhI

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