No.31新着 時代劇 チャンバラから東映の全盛、テレビへの移行まで
時代劇は無声映画のチャンバラに始まり、1950年代の東映で年間170本台の量産に達した。1960年代に任侠映画とテレビへ主役を譲り、近年は低予算の『侍タイムスリッパー』のような例も出ている。
本文と出典
あらまし
時代劇は、江戸時代以前を舞台にした劇映画である。日本映画のなかで最も長く量産されたジャンルであり、その盛衰は映画会社の経営、観客の好み、テレビの普及と重なっている。作品名を覚えるより、誰がいつ量産を支え、なぜ映画館から茶の間へ移ったのかを追うほうが、全体がつかみやすい。
主なできごと
・1908年 牧野省三(マキノ省三)が横田商会で『本能寺合戦』を撮影。興行目的で撮られた最初の時代劇映画とされる
・1925年 阪東妻三郎主演、二川文太郎監督の『雄呂血』が公開。写実的な殺陣が評判になる。同年にマキノ・プロダクションと阪東妻三郎プロダクションが設立される
・1926年 尾上松之助が死去。1909年から17年間で1003本の時代劇に出たとされる
・1951年 東映が発足
・1954年 東映の『笛吹童子』が大ヒット
・1955年 大手6社で年間174本の時代劇が作られる
・1961年 黒澤明『用心棒』が4月25日に公開
・1962年 時代劇の製作が77本に半減。『椿三十郎』が公開
・1964年 東映が任侠路線へ転換。時代劇のスタッフをテレビへ移す
・1966年 東映が映画の時代劇を打ち切る
・1978年 東映が12年ぶりに『柳生一族の陰謀』で時代劇を復活させる
・2011年 テレビ『水戸黄門』が42年の歴史を終える
・2024年 『侍タイムスリッパー』が池袋の1館から公開され、300館以上に広がる
無声映画のチャンバラと三大スター
映画の時代劇は、当初「旧劇」と呼ばれた。歌舞伎の型を映画に写したもので、尾上松之助が牧野省三と組んで量産した。松之助は1926年の『侠骨三日月』まで出演を続け、本数は1003本とされる。ただし、松之助のデビュー年は参照した事典の中で表記が揺れているため、ここでは1909年とされる点を紹介するにとどめる。
転機は1920年代半ばである。1925年、牧野省三のマキノ・プロダクションに阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎らが集まり、それぞれがスターとして売り出された。同年の『雄呂血』は写実的な殺陣で新風を吹き込んだとされる。阪妻、右太衛門、千恵蔵の三人は、戦後の東映時代劇でも看板を務めた。松竹は1927年に林長二郎(のちの長谷川一夫)を時代劇スターとして売り出し、各社がスター中心の量産体制に入った。
東映時代劇の全盛
戦後の主役は東映である。1951年に発足した東映は、1954年の『笛吹童子』で東千代之介と中村錦之助を世に出し、1956年の『赤穂浪士』(松田定次監督)の大ヒットで業界の首位に立ったとされる。
量産を可能にした仕組みは、映画会社が製作から上映館の確保までを握る体制だった。東映は1950年代後半に年間104本を作り、毎週2本の新作を1週間ずつ上映した。主演スターを順に回し、正月とお盆にはオールスターを並べる。誰が出るかで企画を立てる方式で、時代劇はその中心にあった。1955年に大手6社で174本、1960年に168本という本数は、この体制の裏づけである。
黒澤明の殺陣が変えたもの
1961年の『用心棒』は、東映の時代劇が前提としていた歌舞伎風の立ち回りを避け、荒々しい殺陣を目指した。殺陣師は久世竜。主人公が一人に二度斬りつけるのは、一太刀では止めを刺せないと黒澤が考えたからだという。刀が肉を斬る音を効果音として使ったのも本作が初めてで、鶏肉に割り箸を刺して叩いて作ったとされる。国内の配給収入は3億5100万円で、1961年度の邦画の4位だった。1962年の正月映画では、続編の『椿三十郎』が東映の『東海道のつむじ風』を圧倒した。
なぜ映画の時代劇は減ったのか
時代劇の本数は1962年に77本へ落ち、東映が時代劇を打ち切った後は15本にまで減り、1973年以降は年5本ほどになった。理由は一つに絞れない。ひとつは、東映の様式的な時代劇が、黒澤作品など他社の写実的な作品の前で色あせたことである。ふたつめは、東映自身が1964年に任侠路線へ舵を切ったことである。みっつめは、スタッフの受け皿がテレビに移ったことで、東映は同年に東映京都テレビプロダクションを設立している。1971年には大映が倒産し、量産を支えた会社の数そのものが減った。
テレビでは長寿番組が続いた。『水戸黄門』は2011年12月19日に42年の歴史を終えている。映画側では、1978年の『柳生一族の陰謀』のように大作として復活させる動きがあり、2002年の山田洋次監督『たそがれ清兵衛』は国内の映画賞を席巻した。2006年の『武士の一分』は興行収入41.1億円だった。
近年の動き
2024年の『侍タイムスリッパー』は、8月17日に池袋シネマ・ロサの1館で始まり、9月13日に大手シネコンでも上映が始まって、300館以上に広がった。第48回日本アカデミー賞(2025年3月14日)で最優秀作品賞を受けている。大手の量産体制ではなく、独立系の作品が評判で広がった例である。
評価の分かれる点
時代劇の始まりをいつと数えるかは、資料によって分かれる。牧野省三が1908年に撮った『本能寺合戦』を最初の時代劇映画とする説明がある一方、「時代劇」という呼び名を使った最初は、1922年に松竹が「新時代劇」と宣伝した『清水の次郎長』とされる。同じ事典の中でも「時代劇」と「新時代劇」の呼称が混在しているという指摘があり、断定はできない。
くらさんの考察
時代劇の減少を、黒澤作品の写実性とテレビ移行のどちらか一方で説明するのは難しい。東映が1964年に自ら任侠路線へ移り、同じ年にテレビ制作会社も作っているので、映画の時代劇を打ち切る判断は会社の側にもあったと考えられる。一方で、『侍タイムスリッパー』が少数の館から広がったことは、観客が時代劇を見たいという需要そのものは残っていた可能性を示している。
ジージへの問いかけ
・子どものころに映画館で見た時代劇は、東映の作品でしたか。それとも別の会社の作品でしたか。
・映画の時代劇からテレビの時代劇へ移ったとき、画面の迫力や見方に違いを感じましたか。
・阪妻、千恵蔵、右太衛門のうち、いちばん記憶に残っているスターは誰でしょうか。
出典
・時代劇(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/時代劇
・用心棒(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/用心棒
・プログラムピクチャー(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/プログラムピクチャー
・侍タイムスリッパーの日本アカデミー賞受賞(シネマトゥデイ) https://www.cinematoday.jp/news/N0147894
動画
・【京都・太秦映画村】大人が楽しめるテーマパークへ!観客も時代劇の世界に入り込む感覚のショーや拷問体験!? リニューアルオープンまでの舞台裏に密着【MBSニュース特集】(2026年4月3日)(MBS NEWS)https://www.youtube.com/watch?v=kS2IHFXtIjY
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