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No.54新着 日活 創立1912年、石原裕次郎からロマンポルノへ

日活は1912年に4社の合併で生まれた日本で最も古い映画会社の一つである。戦時に製作部門を失い、1954年に製作を再開して石原裕次郎の青春映画で伸びたが、1971年からはロマンポルノで生き延びた。会社更生を経て、今は日本テレビとスカパーJSATが主な株主である。

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登録日時
2026年10月29日 13:38
出典を確かめた日
2026年10月29日
分野
映画会社と業界
立場
くらさんの考察
タグ
邦画新着日活・大映新着
作品・人物
石原裕次郎、堀久作、鈴木清順、日活ロマンポルノ
資料の種類
事典・概説
年代
1912年、1954年、1971年

本文と出典

あらまし

日活の創立は1912年3月で、横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会の4社が合併して日本活動フィルム株式會社となった。同年9月に日本活動冩眞株式會社と改め、略称を日活とした。会社の歴史は、製作を失った時期、石原裕次郎の時代、ロマンポルノの時代、更生手続きの時期に分けて見るのが分かりやすい。

主なできごと

・1912年 4社合併で創立
・1942年 戦時統合で製作部門を大映に移し、興行専業となる
・1954年 調布に撮影所を建設して製作を再開。6月29日、第1作『国定忠治』公開
・1956年 石原裕次郎が入社。『太陽の季節』が社会現象に
・1959年 配収で業界2位に躍進
・1968年 『殺しの烙印』を理由に鈴木清順を解雇
・1971年 11月から成人映画「日活ロマンポルノ」を開始
・1978年 社名を「株式会社にっかつ」に変更。ロマンポルノ裁判で被告全員が無罪判決
・1993年 7社が会社更生法の適用を申請
・1996年 更生計画が認可され、社名を日活に戻す
・2009年 日本テレビが保有株の一部を取得

製作を失い、取り戻す

1942年の戦時統合で製作部門は大映に移り、日活は興行専業になった。戦後の1953年に五社協定が結ばれ、同年7月に堀久作社長が製作再開を株主に通知した。1954年に調布の撮影所で製作を再開し、他社からスタッフや俳優を引き抜き、新人の発掘にも力を入れた。

裕次郎の時代

1956年に石原裕次郎が入社し、石原慎太郎原作の『太陽の季節』が社会現象となった。以後は青春・アクション映画が中心になり、1959年には配収で業界2位に上がった。ただ1965年に3位へ下がり、1967年には映画担当の重役が総退陣し、1969年には主要資産を売って業界最下位になった。

ロマンポルノとその後

1971年8月に一般映画の製作を終え、11月からロマンポルノを始めた。1972年に作品が摘発され、裁判になったが、1978年に被告全員が無罪となっている。1988年にロマンポルノを終えて一般映画に戻り、1992年の創立80周年記念作『落陽』は記録的な不入りだった。1993年に更生法を申請し、ナムコの中村雅哉が事業管財人になった。
現在の主要株主は日本テレビ放送網とスカパーJSATで、いずれも持分法適用関連会社である。

戦前から戦後の再出発まで

1913年に東京・向島に撮影所を建て、1914年にはトルストイ原作の『復活(カチューシャ)』が大ヒットした。1922年に向島撮影所から女形を一掃し、岡田嘉子らを迎えた。1926年には看板スターの尾上松之助が死去し、1929年に初の部分トーキー作品を作り、1934年に東京・調布に多摩川撮影所が完成した。1935年から1936年にかけて堀久作が経営再建に乗り出し、東宝との業務提携を進めている。
1945年に大映から直営館29館を譲り受けて日活株式会社に改称し、1947年に東宝・松竹が持っていた株が経営陣に譲渡されて独立した。1952年には新東宝の救済合併を図ったが、東宝の反対で実現しなかった。同年には日比谷に日活国際会館を建てている。

1950年代後半からの浮き沈み

1955年に初のカラー映画『緑はるかに』を公開した。1957年には経営不振で無配に落ち、1959年に復配した。1961年には赤木圭一郎が事故で重傷を負って死去している。1970年に大映と配給部門を統合してダイニチ映配を設立し、1971年に堀雅彦が社長に就いて組合が経営に参加した。1974年に堀久作が死去し、1975年に日活芸術学院が開校、1976年には『嗚呼!!花の応援団』が大ヒットした。1977年に黒澤満らが東映へ移った。
1978年には債務超過で上場廃止の危機に陥り、流通卸センターと提携して増資した。1980年に18年ぶりの復配となった。2005年にナムコ保有株の大半がインデックスグループに売られ、2012年に創立100周年、2021年に映像事業部内にアニメ事業部を設けている。

評価の分かれる点

日活の戦時統合は、国の要請による再編の一つである。1942年に製作部門が大映に移ったことを、会社の断絶と見るか、のちの再出発の前提と見るかは立場による。
ウィキペディアでは、スカパーJSATの持分が株主欄で28.4%、本文で27%と食い違っている。どちらが現在の数字かは今回確かめられていない。ロマンポルノは、当時は摘発の対象になったが、のちに映画監督を育てた場として語られることも多く、評価は一つにまとまらない。

くらさんの考察

日活は、一般映画から成人映画へと、会社の存続のために重心を大きく動かした。ロマンポルノを会社の延命策とだけ見るか、若手が撮る場と見るかで語り方が変わると考えられる。

ジージへの問いかけ

・裕次郎の日活映画を、映画館で見た記憶はありますか。
・日活ロマンポルノの時代を、当時の街の空気としてどう覚えていますか。

出典

・ウィキペディア「日活」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日活

動画

・『嵐を呼ぶ男』予告編(【公式】日活フィルム・アーカイブ)https://www.youtube.com/watch?v=uX-nZk26Qlg
・日活創立100周年記念 特別企画「生きつづけるロマンポルノ」予告篇(【公式】日活MOVIEチャンネル)https://www.youtube.com/watch?v=PmNx0rBFrmA

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