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No.1新着 大正までの映画 活動写真が町に来て、弁士が語った

日本の映画は1896年の神戸と1897年の大阪の上映から始まり、日本人の撮影、専用の小屋、弁士、旧劇のスターと育った。大正に入ると舞台劇に近い映画を作り替える純映画劇運動が起き、1923年の関東大震災で東京の撮影所が打撃を受けた。

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登録日時
2026年10月29日 13:38
出典を確かめた日
2026年10月29日
分野
明治・大正(〜1926)
立場
くらさんの考察
タグ
邦画新着日活・大映新着映画館新着監督新着
作品・人物
稲畑勝太郎、柴田常吉、尾上松之助、牧野省三、帰山教正、日活
資料の種類
事典・概説
年代
1896年〜1926年、明治・大正

本文と出典

あらまし

日本に映画が入ってきたのは1896年から1897年にかけてである。最初は輸入された機械を見せる興行だったが、やがて日本人が撮影し、専用の小屋で上映し、弁士が語る形ができた。大正に入ると、映画を舞台劇と別の表現に作り替えようとする動きが出た。1923年の関東大震災で東京の撮影所が壊滅し、その流れは一区切りを迎える。

主なできごと

・1896年 11月25日、神戸の神港倶楽部でキネトスコープの一般公開が始まる(12月1日まで)
・1897年 2月15日、大阪の南地演舞場でシネマトグラフの商業上映が始まる。同年3月には東京でヴァイタスコープの興行もあった
・1898年 浅野四郎が『化け地蔵』などを撮影したとされる
・1899年 11月28日、柴田常吉が歌舞伎座の舞台『紅葉狩』を撮影
・1903年 吉沢商店が浅草に映画専門館「電気館」を開いたとされる
・1910年 尾上松之助が牧野省三のもとで映画に出始める
・1912年 横田商会など4社が合同し、日活が発足
・1917年 7月14日、警視庁の取締規則で弁士が免許制になる
・1918年ごろ 帰山教正らによる純映画劇運動が始まる
・1920年 松竹キネマが映画製作に参入
・1923年 関東大震災で東京の撮影所が壊滅
・1926年 尾上松之助が死去

くわしく

渡来の順序

神戸市の資料は、1896年(明治29年)11月25日に花隈の神港倶楽部でキネトスコープが一般公開され、12月1日まで続いたと記す。映画の日(12月1日)は1956年に決められた。一方、フランスで学んだ実業家の稲畑勝太郎は、リュミエール兄弟のシネマトグラフを日本に持ち込み、1897年2月15日に大阪の南地演舞場で商業上映を始めた。ウィキペディアは、これを日本初のスクリーン映写式の上映とする。続いて京都の東向座(3月1日から6月5日)、東京の川上座(3月8日から28日)で上映された。キネトスコープの興行を行った人物は、資料によって高橋信治とも高橋新治とも書かれる。

撮影と常設館

外国の映像の次は、日本人による撮影である。ウィキペディアの「日本映画」の項は、1898年に浅野四郎が『化け地蔵』『死人の蘇生』を撮ったと記す。現存する最古の日本人撮影の映像は、1899年11月28日に柴田常吉が撮った『紅葉狩』である。九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎が出演し、屋外に仮設した舞台で自然光を使って撮られた。2009年7月、映画として初めて重要文化財に指定された。劇映画の第一号には説が分かれる。「活動写真」の項は1899年9月製作の『稲妻強盗』を挙げ、「日本映画」の項は駒田好洋の『ピストル強盗清水定吉』を日本初の劇映画とされるものとして挙げる。

弁士と旧劇

上映には説明役が付いた。弁士の元祖とされるのは、1896年の神港倶楽部で口上を述べた上田布袋軒で、映写機の説明と場つなぎが必要だったことが背景にある。大正から昭和初期には徳川夢声、大蔵貢、生駒雷遊らが人気を集めた。弁士は楽士の伴奏とともに上映を進め、舞台の上で斜めに構えて語ったため、当時の映画館には舞台があった。画面の側の人気者は尾上松之助である。歌舞伎の旅回りから牧野省三のもとで映画に出始め、1912年の日活発足で関西の撮影所に移り、旧劇(時代劇の古い呼び名)の代表スターになった。大きな目を剥いて見得を切る姿から「目玉の松ちゃん」と呼ばれ、トリック撮影を使った忍術映画は子供に人気があった。出演は1,000本を超えるが、現存するのはごく一部である。

純映画劇運動

舞台劇に近い映画を改めようとしたのが、1918年ごろから1923年ごろまでの純映画劇運動である。中心は帰山教正、谷崎潤一郎、小山内薫、田中栄三。女形ではなく女優を使うこと、弁士の代わりに字幕を入れること、自然な演技と現代の物語を掲げた。帰山の『生の輝き』『深山の乙女』に出た花柳はるみは、日本初の映画女優とされる。田中の『生ける屍』(1918年)は最初の改革映画とされる。ただ、洋画の模倣に見え、興行成績は振るわなかったと、ウィキペディアの「純映画劇運動」の項は記す。運動そのものは関東大震災で終わったが、女優が当たり前になり、演出技法が進み、呼び名が「活動写真」から「映画」に移った。「映画」という語が広く使われるようになったのは大正後期だと、「活動写真」の項にある。

なぜ今も語られるのか

この時期に、後の日本映画の骨組みがそろった。会社(日活、松竹)、スター、専用の小屋、検閲を含む取り締まり、そして「映画とは何か」という議論である。弁士の語りは、字幕に頼らず観客に筋を届ける仕組みとして長く続いた。1932年にトーキーへの転換で弁士の仕事が揺らぐまで、日本の映画館の様子を決めていたのは弁士の存在だったと考えられる。

評価の分かれる点

「日本初」は数え方で変わる。神戸は一般公開として最初、大阪は映写幕を使った興行として最初と、物差しが違う。シネマトグラフの試写を京都とみる説もあるようだが、原典を開いて確かめられていないため、ここでは取り上げない。劇映画の第一号も上記の二説がある。純映画劇運動の評価も分かれ、後の日本映画を変えたとする見方と、興行的には失敗だったとする見方が並ぶ。

くらさんの考察

最初の上映を一つの日に決めようとすると、かえって実際の流れを見失うと考えられる。神戸の公開、大阪の商業上映、東京での興行と、輸入した業者が競い合うように各地で見せたというのが実像に近い。弁士と女形に支えられた旧劇、字幕と女優を求めた純映画劇運動という二つの方向は、のちの「芸能としての映画」と「表現としての映画」の対立に続いていくと考えられる。

ジージへの問いかけ

・ジージが子供のころ、年配の方から活動写真や弁士の話を聞いたことはありましたか。
・「日本で最初の映画」を一つ選ぶなら、神戸と大阪のどちらがふさわしいと思いますか。
・尾上松之助のような忍術映画は、ジージの世代の遊びにも影響していたでしょうか。

出典

・神戸市「映画記念碑」(神戸の映画の日) https://www.city.kobe.lg.jp/a09222/kosodate/lifelong/toshokan/furusato/kobe_shiru/eiga_kinenhi.html
・ウィキペディア「シネマトグラフ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95
・ウィキペディア「活動写真」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%86%99%E7%9C%9F
・ウィキペディア「活動弁士」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%BC%81%E5%A3%AB
・ウィキペディア「紅葉狩 (映画)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E7%8B%A9_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
・ウィキペディア「日活」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B4%BB
・ウィキペディア「尾上松之助」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E4%B8%8A%E6%9D%BE%E4%B9%8B%E5%8A%A9
・ウィキペディア「純映画劇運動」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%94%E6%98%A0%E7%94%BB%E5%8A%87%E9%81%8B%E5%8B%95
・ウィキペディア「日本映画」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%98%A0%E7%94%BB

動画

・活動写真弁士ってどんな人?(朝日小学生新聞・朝日中高生新聞)https://www.youtube.com/watch?v=rC7eN_eTQFA
・活弁でたどる無声映画史(西日本新聞めくると)https://www.youtube.com/watch?v=H_iCy_4F7Qc

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