No.111新着 小津安二郎 固定したカメラで家族の別れを撮り続けた監督
小津安二郎は松竹で撮影助手から監督になり、1927年から1962年まで撮り続けた。低い位置に据えたほぼ固定のカメラで、親子と家族の別れを描いた。『東京物語』は後年、海外の映画人の投票でも上位に挙がっている。
本文と出典
あらまし
小津安二郎(1903〜1963)は、松竹で活躍した映画監督である。
カメラを低い位置に据え、ほとんど動かさず、家族の日常を静かに撮った。
代表作は『晩春』『麦秋』『東京物語』『秋刀魚の味』である。
没後に評価が国際的に広がった監督として語られることが多い。
主なできごと
・1903年 東京の深川に生まれる(12月12日)
・1923年 松竹蒲田撮影所に撮影助手として入る
・1927年 時代劇『懺悔の刃』で監督に昇進する
・1932年 『生れてはみたけれど』がキネマ旬報ベストテンの1位になる
・1943年 南方に派遣され、敗戦後シンガポールで抑留される
・1946年 2月に帰国する
・1949年 『晩春』を発表。毎日映画コンクールで監督賞と脚本賞
・1951年 『麦秋』。ブルーリボン賞の監督賞を受ける
・1953年 『東京物語』
・1958年 紫綬褒章を受ける
・1962年 日本芸術院会員に選ばれる。遺作『秋刀魚の味』
・1963年 12月12日、60歳の誕生日に死去
くわしく 無声映画から戦後へ
小津は1923年に松竹の蒲田撮影所へ入り、4年後の1927年に監督になった。
最初の作品は時代劇である。
その後は現代の庶民を描く作品へ移り、『東京の合唱』(1931年)や『生れてはみたけれど』(1932年)を撮った。
後者はキネマ旬報のベストテンで1位になっている。
戦争で、小津は中国へ従軍し、1943年には東南アジアへ送られた。
敗戦後はシンガポールで抑留され、帰国したのは1946年2月である。
戦後の第一作は『長屋紳士録』(1947年)である。
くわしく 作風と常連の顔ぶれ
作風の特徴は、低い位置から撮るローポジションと、ほぼ固定したカメラである。
画面は左右対称に近い構図を好み、場面と場面のあいだに人のいない風景や物の映像を挟んだ。
暗転や溶暗を避けたことも特徴に挙げられる。
いわゆる180度ルールを守らない切り返しも用いた。
画面の比率は、ワイド画面ではなく標準のまま通している。
色彩映画は『彼岸花』(1958年)からで、アグファカラーを使った。
人の面では、脚本の野田高梧が『晩春』以降のほぼすべての作品で共同執筆者を務めた。
俳優は笠智衆が常連で、原節子は『晩春』『麦秋』『東京物語』に出た。
撮影は厚田雄春が14本、茂原英雄が32本を担当したと記録されている。
同じ顔ぶれで同じ題材を繰り返し撮ったことが、作品群をひとまとまりに見せている。
くわしく 晩年の十数年
小津の名で最もよく知られる作品は、戦後の十数年に集中している。
1949年の『晩春』、1951年の『麦秋』、1953年の『東京物語』は、原節子が出演した作品として並べて語られる。
1958年の『彼岸花』で初めて色彩映画を撮り、1962年の『秋刀魚の味』が遺作になった。
作品の数が増えても、題材は娘の結婚や親との別れに絞られている。
評価のうえでは、1951年に『麦秋』でブルーリボン賞の監督賞、1958年に紫綬褒章、1959年に日本芸術院賞を受けた。
1962年には日本芸術院会員に選ばれ、映画人として初めての選出だったと記されている。
こうした栄誉は、映画が芸術として扱われる流れの中に小津がいたことを示している。
1963年12月12日、60歳の誕生日に亡くなった。
なぜ今も語られるのか
小津の題材は、親と子、娘の結婚、親の死といった、どの時代にも起こる家族の別れである。
事件が起きるわけではない。
そのため、時代や国が違っても、観客が自分の家族に引き寄せて見られると考えられる。
海外での評価を示す事実もある。
『東京物語』は、1958年にロンドンで上映されたとき英国映画協会のサザーランド杯を受けたとされる。
ただし、参照した事典はこの賞の年を1953年とも記しており、年の記述が食い違っている。
また、英国映画協会の雑誌『サイト・アンド・サウンド』が2012年に行った監督対象の投票では、『東京物語』が1位になったと記されている。
評価の分かれる点
小津の映画は、日本の伝統美や「日本的なもの」の表現として語られることが多い。
一方で、固定カメラや対称構図は映画の文法を意識的に崩した方法であり、日本らしさよりも形式の実験として読むべきだという見方もある。
どちらが正しいかは、ここでは断定しない。
くらさんの考察
小津はカメラを動かさなかった。
それなのに画面が退屈にならないのは、人物の配置と間の取り方が厳密に決められているからだと考えられる。
同じ俳優、同じ脚本家、同じ撮影の体制で撮り続けたことは、その厳密さを保つ条件になったのではないか。
黒澤明や溝口健二と比べると、動きの少なさが際立つ。
同じ時代の日本映画の幅の広さを示す例として見ると面白い。
ジージへの問いかけ
・映画館で初めて小津作品をご覧になったのは、どの作品でしたか。
・家族の別れを描く映画は、昔と今で観客の受け止めが変わったと思いますか。
・カメラが動かない映画は、退屈だったでしょうか、それとも落ち着いたでしょうか。
出典
・ウィキペディア「小津安二郎」 https://ja.wikipedia.org/wiki/小津安二郎
動画
・映画『The Ozu Diaries/小津ダイアリー』予告編【10.9(金)日本公開】(松竹チャンネル/SHOCHIKUch)https://www.youtube.com/watch?v=VpDlvZVeHh0
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