松竹このタグの資料 13 本

  1. フランス映画とヌーヴェルヴァーグ 批評家が撮り手になった「新しい波」新着No.132

    映画の有料上映が始まったフランスは、1950年代末に「新しい波」と呼ばれる若手監督の動きを生んだ。批評家出身の監督たちが低予算で撮った作品は、日本にも伝わり、松竹の若手監督の売り出しにも使われた。

  2. 小津安二郎 固定したカメラで家族の別れを撮り続けた監督新着No.111

    小津安二郎は松竹で撮影助手から監督になり、1927年から1962年まで撮り続けた。低い位置に据えたほぼ固定のカメラで、親子と家族の別れを描いた。『東京物語』は後年、海外の映画人の投票でも上位に挙がっている。

  3. 笠智衆と、小津映画の俳優たち 日本の父親像をつくった顔ぶれ新着No.108

    笠智衆(1904〜1993)は、1925年に松竹の研究生となり、10年以上の端役を経て、小津安二郎作品で父親役を重ねた。『東京物語』の平山周吉、『男はつらいよ』の御前様まで、小津映画の俳優たちとともにたどる。

  4. 渥美清 『男はつらいよ』の寅さんになる前と後新着No.107

    渥美清(1928〜1996)は、1969年に始まった『男はつらいよ』で車寅次郎を演じた。シリーズは50作、実質の遺作は1995年の第48作。寅さん以前の仕事、受賞、寅さんと素顔の見方の違いをまとめる。

  5. 高峰秀子 『子役は大成しない』を破った、五歳から五十五歳までの女優新着No.102

    高峰秀子(1924〜2010)は1929年に子役で映画に出はじめ、1979年に引退するまで50年にわたり主演を続けた。『二十四の瞳』『浮雲』などの代表作と、引退後の文筆の仕事、評価の割れる点を整理する。

  6. 原節子 『永遠の処女』と呼ばれた、小津映画の顔新着No.101

    原節子(1920〜2015)は、1935年に日活でデビューし、戦後は小津安二郎作品で看板女優になった。1963年に事実上引退し、理由は語られないまま2015年に亡くなった。ウィキペディアの記述を土台に、その仕事と評価の割れ方をたどる。

  7. おくりびと(松竹・2008年) 納棺という仕事を、静かな物語にした新着No.89

    納棺師という職業を描き、2008年9月13日に公開された滝田洋二郎監督の映画。本木雅弘が青木新門の『納棺夫日記』に感銘を受けたことが企画の出発点になった。2009年のアカデミー賞外国語映画賞を受け、公開から半年後に興行が大きく伸びた。

  8. 砂の器(松竹・1974年) 台詞をほぼ削った、親子の旅の十分間新着No.86

    1974年10月19日に公開された松本清張原作、野村芳太郎監督の松竹・橋本プロダクション作品。製作中の中断や、ハンセン病の描写をめぐる申し入れを経て完成した。配給収入は7億円で、1974年の邦画の第3位とされる。

  9. 男はつらいよ(松竹・1969年〜) テレビの最終回への抗議から、シリーズが始まった新着No.85

    1969年8月27日に第1作が公開された松竹の人情喜劇。テレビドラマ最終回への視聴者の抗議が映画化につながった。渥美清が出演した48作は、配給収入464億3000万円、観客動員7957万3000人とされる。

  10. 東京物語(松竹・1953年) 家族が離れていくことを、静かに見つめた新着No.81

    1953年11月3日に公開された小津安二郎監督の松竹作品。尾道から東京へ出てきた老夫婦と、子どもたちの暮らしを描く。海外での評価が後から高まり、世界の映画人の投票でも上位に挙がる。

  11. 松竹 蒲田から大船へ、歌舞伎の会社が作った映画新着No.52

    松竹は歌舞伎などの興行から出発し、1920年に映画製作を始めた会社である。蒲田、大船の撮影所から多くの監督を出したが、2000年に大船撮影所を閉じた。今は歌舞伎興行と映画の配給・興行を柱にしている。

  12. 喜劇とシリーズ映画 社長シリーズから男はつらいよまで新着No.35

    東宝は社長シリーズと駅前シリーズで、松竹は男はつらいよで、同じ顔ぶれの続き物を長く売った。それを可能にしたのは、映画会社が上映館まで握る体制と二本立てだった。

  13. 昭和戦前の映画 トーキーが来て、国が映画を管理した新着No.2

    昭和の前半は、傾向映画から『マダムと女房』に代表されるトーキーへ映画が変わり、PCLから東宝が生まれた時期である。1939年の映画法で製作と配給が許可制になり、戦争末期には映画会社の再編と製作本数の激減が起きた。

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