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No.201新着 田中絹代 14歳の松竹入社から、女優と監督の二つの道を歩いた五十年

田中絹代(1909〜1977)は1924年に松竹へ入り、サイレントからトーキー、戦後の溝口健二作品、1974年の『サンダカン八番娼館 望郷』まで第一線に立った女優である。1953年には監督にも進み、生涯で6本を撮った。出典を開いて確かめられた範囲で経歴を整理する。

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登録日時
2026年10月29日 19:10
出典を確かめた日
2026年10月29日
分野
俳優と監督
立場
事実・データ
タグ
邦画新着女優新着監督新着松竹新着
作品・人物
田中絹代、五所平之助、溝口健二、熊井啓、松竹
資料の種類
事典・概説
年代
1924年、1930年代、1970年代

本文と出典

あらまし

田中絹代は1909年に山口県下関市で生まれ、1977年3月21日に67歳で亡くなった女優である。
1924年に松竹の撮影所へ入って映画に出はじめ、以後50年以上、役柄を変えながら映画に出つづけた。
日本初の本格的トーキーとされる『マダムと女房』への主演、溝口健二監督作での海外の映画祭の受賞、監督への転身、晩年の1974年の主演作での女優賞と、節目の多い経歴である。
この記事は、国立美術館の資料、コトバンク、ウィキペディア、映画情報サイトで確かめられた事項だけを時代順に並べる。

主なできごと

・1924年 松竹下加茂撮影所に入社。野村芳亭監督『元禄女』で映画デビュー
・1925年 松竹蒲田撮影所に移る
・1927年 五所平之助監督『恥しい夢』で好評を得る
・1929年 小津安二郎監督『大学は出たけれど』に出演
・1931年 五所平之助監督『マダムと女房』に主演
・1938〜1939年 野村浩将監督『愛染かつら』が大ヒット
・1940年 溝口健二監督『浪花女』に主演
・1952年 溝口健二監督『西鶴一代女』に主演。ヴェネツィア国際映画祭で国際賞
・1953年 監督第1作『恋文』
・1955年 監督作『月は上りぬ』『乳房よ永遠なれ』
・1974年 熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』に主演
・1975年 同作でベルリン国際映画祭の銀熊賞(最優秀女優賞)
・1977年 3月21日に死去

松竹蒲田のスターへ

田中は少女のころ筑前琵琶を学び、大阪の少女琵琶歌劇団の舞台に立っていた。
1924年に松竹下加茂撮影所へ入り、同年に『元禄女』でデビューした。国立美術館の資料は、入社を14歳のときとしている。
撮影所は翌1925年に蒲田へ移った。
1927年の『恥しい夢』で好評を得て、1929年の『大学は出たけれど』などを経て、蒲田映画のスターになった。
可憐な娘役で人気を集め、松竹の看板女優に育ったと、国立美術館の資料は記している。

『マダムと女房』と『愛染かつら』

1931年の『マダムと女房』は、五所平之助が監督した作品である。田中の出演作として、コトバンクは「日本初の本格的トーキー」とし、国立美術館の資料は「国産の土橋式トーキー第1作」としている。
「日本初のトーキー」をどの作品とみるかは、方式や定義によって変わりうる。ここでは、資料の言い方をそのまま並べるにとどめる。
1938年から1939年にかけての『愛染かつら』は大ヒットし、田中は国民的な女優になった。続編も作られた。ただし作品数の数え方は資料によって異なるため、本数は書かない。

溝口健二との仕事

溝口健二作品への初主演は、1940年の『浪花女』である。
戦後の1952年には、溝口の『西鶴一代女』に主演し、この作品はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞した。
翌1953年の『雨月物語』、1954年の『山椒大夫』にも出演している。
溝口作品での田中は、娘役の人気女優というそれまでの像とは別の、重い役を担った。そこから、演技の幅が広がったと考えられる。

監督としての6本

1953年、田中は『恋文』で監督に進んだ。ウィキペディアは、新東宝の作品としている。
その後の監督作は、1955年の『月は上りぬ』『乳房よ永遠なれ』(日活)、1960年の『流転の王妃』(大映)、1961年の『女ばかりの夜』(東京映画)、1962年の『お吟さま』(文芸プロ)で、合計6本である。国立美術館の資料も、監督作を計6本としている。
女性監督としての位置づけは、資料で書き方が分かれる。コトバンクは『恋文』を「日本の本格的劇映画の女性監督第1号」とする。一方ウィキペディアは、日本で二人目の女性監督で、最初は坂根田鶴子だとする注を付けている。
「本格的」の範囲をどう取るかで答えが変わる問題であり、どちらかに決めることは、ここではしない。

晩年と『サンダカン八番娼館 望郷』

1958年、木下恵介監督の『楢山節考』に出演し、キネマ旬報の主演女優賞を受けた。
1974年の『サンダカン八番娼館 望郷』は、熊井啓が監督と脚本を務め、同年11月2日に公開された。田中は、元からゆきさんの老女の役で主演した。
この作品で田中は、芸術選奨文部大臣賞、キネマ旬報主演女優賞などを受けた。ベルリン国際映画祭では第25回(1975年)で銀熊賞(最優秀女優賞)を受けている。
なお国立美術館のページは受賞を「1974年」と書いているが、映画.com とコトバンクは1975年とする。作品の製作・公開が1974年で、映画祭が翌年だったため、年の取り方が分かれたものと考えられる。

なぜ今も語られるのか

田中の経歴には、無声映画の末期から1970年代までの日本映画の変化が、一人の仕事としてつながって現れる。
蒲田の人気女優としてトーキーの第一作に出たこと、溝口作品で国際的な評価を受けたこと、撮影所の外へ出て監督を務めたこと、老年に至って新しい世代の監督の作品で主演したことは、いずれも別々の転機である。

評価の分かれる点

「日本初のトーキー」の呼び方と、「女性監督第1号」の呼び方は、前に述べたとおり資料ごとに異なる。
また、生年月日は11月29日とする資料と12月29日とする資料があり、コトバンクも出典間の違いを注記している。この記事では日付までは書かなかった。

くらさんの考察

田中の経歴で目を引くのは、役柄の変え方である。
娘役から始まり、1970年代には老いた女性の役で主演した。人気を保つために同じ型を繰り返すのではなく、その時々の監督の求めに合わせて像を変えたと考えられる。
監督への転身にも、同じ姿勢を見ることができるかもしれないが、監督作6本の評価は資料によって差があり、本稿では判断しない。映画を観る側から見れば、まず出演作のほうを観て、その幅を確かめるのがよい。

ジージへの問いかけ

・『愛染かつら』のような大ヒット作を、リアルタイムまたはテレビ放映でご覧になったことはありますか。当時の田中絹代の印象はどうでしたか。
・女優が監督になることについて、当時の撮影所の空気はどうだったと思いますか。
・溝口健二の作品と、1974年の『サンダカン八番娼館 望郷』を見比べるなら、どちらから観るのがよいと思いますか。

出典

・ウィキペディア「田中絹代」 https://ja.wikipedia.org/wiki/田中絹代
・コトバンク「田中絹代」 https://kotobank.jp/word/田中絹代
・映画.com「サンダカン八番娼館 望郷」 https://eiga.com/movie/36785/
・国立美術館 アートコモンズ(田中絹代の記述) https://www.nact.jp/artcommons/user/detail/27528

動画

・【TBSスパークル】1931年8月31日 トーキー第1号”マダムと女房”公開(昭和6年)(TBSスパークル映像ライブラリー)https://www.youtube.com/watch?v=Hyv4ytQvv4o

関連動画

この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが映画QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。