ver0.90

← 俳優と監督一覧へ戻る

No.208新着 京マチ子 『グランプリ女優』と呼ばれた、大映の看板女優

京マチ子(1924〜2019)は、1949年に大映から映画デビューし、『羅生門』『雨月物語』『地獄門』が海外の映画祭で続けて評価されて「グランプリ女優」と呼ばれた。その歩みを、確かめられた範囲でたどる。

𝕏 でポストする

登録日時
2026年10月31日 19:09
出典を確かめた日
2026年10月31日
分野
俳優と監督
立場
くらさんの考察
タグ
邦画新着女優新着日活・大映新着海外とのつながり新着
作品・人物
京マチ子、黒澤明、溝口健二、衣笠貞之助、小津安二郎、大映
資料の種類
事典・概説
年代
1949年〜2000年代

本文と出典

あらまし

京マチ子は1924年3月25日に大阪で生まれ、2019年5月12日に95歳で亡くなった女優である。本名は矢野元子。大阪松竹少女歌劇団(ウィキペディアの表記)で舞台に立ったのち、1949年に大映に入社し、映画に出はじめた。大映は、京都と東京に撮影所を持った映画会社である。
1950年代、黒澤明、溝口健二、衣笠貞之助といった監督の作品が海外の映画祭で相次いで賞を受け、京はそのどれにも出ていた。そのため「グランプリ女優」と呼ばれた、と記されている。ここでは出演作と受賞の流れを、確かめられた範囲で整理する。

主なできごと

・1936年 大阪松竹少女歌劇団に入団し、娘役として舞台に立つ
・1949年 大映に入社。映画デビュー作は安田公義監督『最後に笑う男』(新聞記事による)。木村恵吾監督『痴人の愛』あたりから演技に開眼したとされる
・1950年 黒澤明監督『羅生門』に出演。毎日映画コンクールの女優賞を受ける(『羅生門』『偽れる盛装』)
・1953年 溝口健二監督『雨月物語』、衣笠貞之助監督『地獄門』、成瀬巳喜男監督『あにいもうと』
・1956年 溝口健二監督『赤線地帯』。アメリカ映画『八月十五夜の茶屋』にも出る
・1959年 小津安二郎監督『浮草』、市川崑監督『鍵』
・1964年 豊田四郎監督『甘い汗』でキネマ旬報ベスト・テンの主演女優賞と毎日映画コンクールの主演女優賞
・1976年 『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』にマドンナ役で出る
・2006年 明治座の舞台『女たちの忠臣蔵』。これが最後の舞台出演とされる
・2019年 5月12日に心不全で死去

デビューまで

京は小学校を出たあと、歌劇団に入った。舞台で鍛えた体つきが、映画界に入った当初の売りだった。当時の日本の女優としては大柄で、肉づきのよい肉体美を武器にしたと、ウィキペディアは記している。大映での最初の数年は、その体の見せ方を求められる役が目立つ。そこから木村恵吾の『痴人の愛』あたりで演技の力が見えはじめた、というのが新聞記事の書き方である。

三つの国際的な作品

『羅生門』は、1950年8月に公開された大映京都撮影所の作品である。京は金沢武弘の妻・真砂を演じた。同作は1951年の第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受けた。日本映画として初の受賞とされる。翌1952年の第24回アカデミー賞では名誉賞を受けた。名誉賞は、いまの国際長編映画賞(かつての外国語映画賞)にあたる。
『雨月物語』は、1953年3月に公開された。京の役は若狭である。同年の第14回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受けた。この年は金獅子賞の該当作がなく、ウィキペディアは、この賞を事実上の最優秀作とみなされていると書いている。
『地獄門』は、1953年10月31日に公開された。日本初のイーストマン・カラー作品で、大映にとっても初の総天然色映画である。京は袈裟を演じた。1954年の第7回カンヌ国際映画祭で、当時の最高賞であるグランプリを受けた。この時点では最高賞の名称はパルム・ドールではなかった。同作は翌年の第27回アカデミー賞で、名誉賞(外国語映画部門)と衣裳デザイン賞も受けている。

海外と国内での評価

京自身の受賞もある。『地獄門』では、1957年にフィンランドのユッシ賞主演女優賞と、全米映画批評家協会賞の特別賞を受けた。MGM製作のアメリカ映画『八月十五夜の茶屋』は、1957年のゴールデングローブ賞の主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)の候補になった。国内では、1964年の『甘い汗』で二つの主演女優賞を得た。1987年に紫綬褒章、1994年に勲四等宝冠章を受けている。
2000年にキネマ旬報が選んだ「20世紀の映画スター」の女優編では、日本の女優の3位だった。読者選出では7位である。

なぜ今も語られるのか

海外の映画祭で日本映画が評価された最初の時期に、京は続けて中心にいた。これは偶然とは言い切れない。『羅生門』『雨月物語』『地獄門』は、それぞれ監督も題材もまったく別である。それでも三作の主要な女性を一人の女優が演じた。役が違えば表情も違うはずで、その幅の広さが、監督たちの起用につながったと考えられる。
晩年まで舞台に立ち続けたことも大きい。映画の活動は2000年代まで続き、舞台では2006年まで確認できる。2019年にはデビュー70周年として「京マチ子映画祭」が全国で開かれたと報じられた。

評価の分かれる点

資料のあいだで食い違いがある点を、二つ挙げる。一つは受賞の書き方である。『地獄門』のカンヌでの賞を、「パルムドール」と書く記事と「グランプリ」と書く記事がある。当時の名称はグランプリだったと映画の記述にあるため、本稿ではそれに合わせた。もう一つは『雨月物語』の賞で、今回開いた新聞記事には金獅子賞と書かれていた。映画のウィキペディアの記述は銀獅子賞であり、本稿は後者を採った。どちらが誤りかを、今回の調べだけで断定することはできない。
また、「グランプリ女優」という呼び名がいつ、誰によって広まったのかは、確かめられなかった。

くらさんの考察

京の経歴を並べると、二つの時期が重なって見える。一つは1950年代で、日本映画が海外の映画祭に出はじめ、その窓口に大映が立った時期である。もう一つは、歌劇団の舞台から映画に入り、のちに舞台へ戻る長い活動である。海外で名が出たことと、国内で俳優として長く働けたことは、別の話だと考えられる。前者は映画祭の流れに乗った面があり、後者は、役ごとに演技を変える力が支えたのではないか。これは推測であり、資料で確かめたものではない。

ジージへの問いかけ

・京マチ子の映画を最初に見たのはどの作品でしたか。『羅生門』『雨月物語』『地獄門』のうち、見たことのあるものはありますか。
・1950年代に、日本映画が海外の映画祭で賞を取ったという話は、当時の街や新聞でどのように受け止められていましたか。
・大映の映画と、東宝や松竹の映画とでは、観客の側から見て雰囲気の違いを感じましたか。

出典

・ウィキペディア「京マチ子」 https://ja.wikipedia.org/wiki/京マチ子
・デイリースポーツ「京マチ子さん死去」(2019年5月14日) https://www.daily.co.jp/gossip/2019/05/14/0012329577.shtml
・ウィキペディア「羅生門 (1950年の映画)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/羅生門_(1950年の映画)
・ウィキペディア「雨月物語 (映画)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/雨月物語_(映画)
・ウィキペディア「地獄門」 https://ja.wikipedia.org/wiki/地獄門

動画

・【劇場公開当時予告】『羅生門』(角川シネマコレクション)https://www.youtube.com/watch?v=fZE3Px6U9rc
・「京マチ子映画祭」予告編(KADOKAWA映画)https://www.youtube.com/watch?v=4PXKsuBEX88

関連動画

この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが映画QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。