No.112新着 黒澤明 世界の映画人が師と仰いだ監督
黒澤明は1943年に『姿三四郎』で監督になり、『羅生門』でヴェネツィア金獅子賞を受けた。三船敏郎や志村喬と多くの作品を作り、海外の映画人にも影響を与えたとされる。
本文と出典
あらまし
黒澤明(1910〜1998)は、東宝で映画を撮った監督である。
『羅生門』『生きる』『七人の侍』など、日本映画の代表作とされる作品を残した。
自作の脚本の多くを共同で書いたことも特徴である。
主なできごと
・1910年 3月23日に生まれる
・1936年 P.C.L.映画製作所に助監督として入る(翌年に東宝へ合併)
・1943年 『姿三四郎』で監督デビュー
・1950年 『羅生門』
・1951年 『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受ける
・1952年 『生きる』
・1954年 『七人の侍』
・1961年 『用心棒』
・1963年 『天国と地獄』
・1965年 『赤ひげ』。三船敏郎との最後の作品になる
・1968年 米国との共同製作『トラ・トラ・トラ!』から実質的に外される
・1975年 『デルス・ウザーラ』がアカデミー外国語映画賞
・1980年 『影武者』
・1985年 『乱』。映画人で初めて文化勲章を受ける
・1998年 9月6日に88歳で死去。国民栄誉賞が贈られる
くわしく 三船敏郎、志村喬と脚本の仲間
黒澤は監督作30本のうち16本で三船敏郎と組んだ。
最初は『醉いどれ天使』(1948年)で、『赤ひげ』が最後である。
志村喬は『姿三四郎』から黒澤作品に出ており、『醉いどれ天使』で初めて主役級に起用された。
脚本は、ほぼ全作で黒澤自身が書いている。
多くは共同執筆で、小国英雄が12本、菊島隆三が9本、橋本忍が8本と記録されている。
一人で書き切らず、書き手を替えながら作ったことが作品の幅につながったと考えられる。
くわしく 海外との関わり
『羅生門』は、ヴェネツィアでの受賞によって日本映画が海外に知られるきっかけの一つになったとされる。
一つのできごとを複数の人物の視点から語る方法は、のちの多くの作品で使われた。
黒澤はジョン・フォードを尊敬し、影響を公言していた。
ジョージ・ルーカスやフランシス・フォード・コッポラとは交流があり、『影武者』『乱』『夢』の資金集めで協力を得た。
没後の葬儀には、ルーカス、シドニー・ルメット、マーティン・スコセッシらから弔電が届いたと記されている。
アカデミー名誉賞は1989年に決まり、授与は1990年とされる。
参照した事典の本文でも年の書き方に食い違いがある。
くわしく 監督デビューから『羅生門』まで
黒澤は1936年に助監督としてP.C.L.映画製作所に入り、1943年に『姿三四郎』で監督になった。
助監督の時期は7年に及ぶ。
その間に脚本を書く力を磨いたことが、のちに自作のほぼ全作で脚本に関わる土台になったと考えられる。
戦後、1948年の『醉いどれ天使』で三船敏郎と初めて組み、1950年の『羅生門』に至る。
『羅生門』は翌1951年にヴェネツィアで金獅子賞を受けた。
その後の1950年代には『生きる』(1952年)と『七人の侍』(1954年)が続く。
前者は現代の市井の人を、後者は時代劇を描いており、題材は大きく異なる。
どちらも黒澤の代表作として挙げられることから、題材を選ばない幅の広さがうかがえる。
くわしく 晩年の作品
1970年代以降の黒澤は、1975年の『デルス・ウザーラ』でアカデミー外国語映画賞を受けたのち、1980年の『影武者』、1985年の『乱』、1990年の『夢』、1993年の『まあだだよ』を撮った。
最後の『まあだだよ』まで、約半世紀にわたって監督を続けたことになる。
1985年には、映画人として初めて文化勲章を受けた。
『影武者』『乱』『夢』の資金集めでは、ルーカスとコッポラの協力があった。
なぜ今も語られるのか
黒澤の映画は、時代劇の斬り合いも、現代劇の社会派も、同じ強い語り口で撮られている。
筋が分かりやすく、動きで見せる場面が多い。
そのため、言葉の壁を越えやすかったと考えられる。
評価の分かれる点
1960年代後半、黒澤は米国との共同製作『トラ・トラ・トラ!』に加わったが、撮影の遅れと演出方法の食い違いから外された。
会社側は健康上の理由と発表した。
この件の責任がどこにあったかは、立場によって語りが分かれる。
本稿は、外されたという経過だけを記す。
その後、黒澤は1971年に自宅で自殺を図り、命は助かった。
このことを作品とどう結びつけるかは、論者によって見方が違う。
くらさんの考察
黒澤は海外の映画人に称えられた一方で、1970年代には日本国内で資金を集めにくくなり、海外の協力に頼った。
『デルス・ウザーラ』はソ連との製作である。
映画の評価と、製作の場の確保が別の問題だったことがうかがえる。
また、小津安二郎や溝口健二の静かな作風と並べると、同時代の日本映画が一色でなかったことが見える。
ジージへの問いかけ
・『七人の侍』を最初にご覧になったのは、劇場でしたか、テレビでしたか。
・三船敏郎の姿でいちばん覚えている作品は何でしょうか。
・黒澤が海外で大きく称えられたことを、当時の日本ではどう受け止めていたと思いますか。
出典
・ウィキペディア「黒澤明」 https://ja.wikipedia.org/wiki/黒澤明
動画
・『七人の侍』(1954)予告篇 /【東宝名画座】で本編配信中(東宝クラシックス)https://www.youtube.com/watch?v=B-ppwC3DDHE
関連動画
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