← 昭和戦前(1926〜1945)一覧へ戻る

No.2新着 昭和戦前の映画 トーキーが来て、国が映画を管理した

昭和の前半は、傾向映画から『マダムと女房』に代表されるトーキーへ映画が変わり、PCLから東宝が生まれた時期である。1939年の映画法で製作と配給が許可制になり、戦争末期には映画会社の再編と製作本数の激減が起きた。

𝕏 でポストする

登録日時
2026年10月29日 13:38
出典を確かめた日
2026年10月29日
分野
昭和戦前(1926〜1945)
立場
くらさんの考察
タグ
邦画新着松竹新着東宝新着日活・大映新着監督新着
作品・人物
五所平之助、小津安二郎、溝口健二、東宝、大映、黒澤明
資料の種類
事典・概説
年代
1926年〜1945年、昭和戦前

本文と出典

あらまし

昭和の最初の20年は、無声映画の成熟、トーキーへの転換、国による統制という三つが重なった時期である。映画は社会不安を映す傾向映画から、音の入った新しい形式へ移った。1939年の映画法で国の管理下に入り、戦争末期には会社が統合され、作れる本数も減った。

主なできごと

・1929年 傾向映画が現れる(内田吐夢『生ける人形』、溝口健二『都会交響楽』)。小津安二郎『大学は出たけれど』
・1930年 鈴木重吉『何が彼女をさうさせたか』が大ヒット
・1931年 PCL(写真化学研究所)設立。8月1日、五所平之助『マダムと女房』公開
・1932年 4月、浅草の松竹系映画館で弁士・楽士の解雇に反対するストライキ
・1937年 PCLがJ.O.スタヂオと合併し、東宝映画となる
・1939年 映画法が4月5日に公布、10月1日に施行
・1942年 1月27日、大日本映画製作(大映)が発足。日活は製作部門を大映に移し、配給だけの会社になる
・1943年 東宝映画が東京宝塚劇場と合併し、12月に社名を「東宝」とする。黒澤明が『姿三四郎』で監督デビュー
・1945年 12月26日、映画法が廃止される

くわしく

傾向映画

日本大百科全書(コトバンク)によると、1929年から1931年にかけて、経済恐慌や社会状況を映し、階級社会の暴露や闘争を描いた映画群を傾向映画と呼ぶ。先駆けは内田吐夢『生ける人形』(1929年)で、溝口健二『都会交響楽』は国家検閲で大幅に削除された。1930年の鈴木重吉『何が彼女をさうさせたか』は大ヒットした。1931年秋の満州事変と検閲で退潮した。同じ時期、小津安二郎は『大学は出たけれど』(1929年)などで、勤め人の不安と悲哀を描いた。世界大百科事典は、これを傾向映画に対抗する流れとして説明している。

トーキーへの移行

1931年8月1日に公開された五所平之助『マダムと女房』は、松竹蒲田撮影所で撮られた。土橋武夫・晴夫兄弟の「土橋式松竹フォーン」を使ったサウンドトラック方式で、日本初の本格的なトーキー映画とされる。同年のキネマ旬報ベスト・テンで1位になった。音が入ると、画面の説明を担った弁士の仕事が揺らぐ。1931年に洋画への日本語字幕が始まり、1932年4月には浅草の松竹系映画館で、弁士や楽士の解雇に反対するストライキが起きた。多くの弁士はのちに漫談家、講談師、紙芝居師、ラジオの朗読者などに転じた。

東宝の誕生と撮影所

写真化学研究所(PCL)は1931年に設立され、トーキーの技術を開発していた。1937年にJ.O.スタヂオと合併して東宝映画になり、1943年に東京宝塚劇場と合併して製作・配給・興行を一貫して行う東宝となった。「日本映画」の項は、1934年から1936年にかけて日活が多摩川、松竹が大船に撮影所を移したとも記す。

映画法と戦時統制

映画法は1939年4月5日に公布され、10月1日に施行された。製作・配給を許可制とし、脚本の事前検閲、ニュース映画や文化映画の上映義務、外国映画の制限を定めた。映画従事者は技能審査を経て登録することとされた。14歳未満には教育上有害な映画を見せない規定もあり、年齢制限の原型と見る向きがある。当時は「日本初の文化立法」とも呼ばれた。1942年には新興キネマ、大都映画、日活の製作部門を統合した大映が発足し、会社の数が絞られた。国策に沿った作品も作られた。『日本映画』の項は、1940年の『燃ゆる大空』、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』(円谷英二の特撮)などを挙げる。同じ項は、1941年に約500本あった年間の製作本数が、1945年には26本まで減ったとも記す。

なぜ今も語られるのか

この時期の統制は、戦後の日本映画の骨組みに残った。製作・配給・興行を一社が抱える形は東宝や大映の成り立ちに通じ、のちの五社体制の土台になった。一方で、検閲や許可制の下でどこまで描けたのかは、作品ごとに評価が分かれる。

評価の分かれる点

「日本初のトーキー」は、何を初めとするかで答えが変わる。『マダムと女房』は全編に音が流れる本格的なものとして「初」とされるが、「日本映画」の項は1929年にディスク式の作品(『大尉の娘』『戻橋』)があったとする。映画法も評価が分かれる。当時は文化立法と称えられ、のちに多くの映画人が悪法と呼んだ。国策映画をどう見るかも一つに決まらない。

くらさんの考察

トーキーによる弁士の失業と、映画法による会社の絞り込みは、どちらも「映画を誰が語るのか」を変えた出来事と考えられる。弁士が語った映画は、国が監督し、会社が語る映画へ移った。傾向映画の短い流行が検閲と事変で終わったことは、統制が表現の幅を先に狭めていった例として読める。

ジージへの問いかけ

・ジージの記憶にある一番古い映画館は、まだ弁士の気配が残っていましたか。
・戦時中の映画について、ご家族から聞いた話はありますか。
・『マダムと女房』のような「音が出る映画」を初めて見た人は、何に驚いたと思いますか。

出典

・コトバンク「傾向映画」 https://kotobank.jp/word/%E5%82%BE%E5%90%91%E6%98%A0%E7%94%BB-58677
・ウィキペディア「マダムと女房」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%A8%E5%A5%B3%E6%88%BF
・ウィキペディア「活動弁士」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%BC%81%E5%A3%AB
・ウィキペディア「東宝」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AE%9D
・ウィキペディア「映画法」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A0%E7%94%BB%E6%B3%95
・ウィキペディア「大映」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%98%A0
・ウィキペディア「日活」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B4%BB
・ウィキペディア「日本映画」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%98%A0%E7%94%BB

動画

・【TBSスパークル】1931年8月31日 トーキー第1号”マダムと女房”公開(昭和6年)(TBSスパークル映像ライブラリー)https://www.youtube.com/watch?v=Hyv4ytQvv4o

関連動画

この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが映画QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。