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No.52新着 松竹 蒲田から大船へ、歌舞伎の会社が作った映画

松竹は歌舞伎などの興行から出発し、1920年に映画製作を始めた会社である。蒲田、大船の撮影所から多くの監督を出したが、2000年に大船撮影所を閉じた。今は歌舞伎興行と映画の配給・興行を柱にしている。

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登録日時
2026年10月29日 13:38
出典を確かめた日
2026年10月29日
分野
映画会社と業界
立場
くらさんの考察
タグ
邦画新着松竹新着監督新着映画館新着
作品・人物
大谷竹次郎、城戸四郎、小津安二郎、木下惠介、渥美清
資料の種類
事典・概説
年代
1895年、1920年、2000年

本文と出典

あらまし

松竹は、劇場の興行から映画に広がった会社である。松竹自身は、1895年に大谷竹次郎が京都の阪井座を買収して興行主になったことを創業の起源としている。映画製作を始めたのは1920年で、歌舞伎の興行は今も続く柱である。

主なできごと

・1895年 大谷竹次郎が京都の阪井座を買収(松竹が創業の起源とする)
・1902年 大谷と兄の白井松次郎が松竹合名会社を設立
・1920年 松竹キネマ合名会社を設立し、映画製作を開始
・1931年 日本初の本格的トーキー『マダムと女房』を上映
・1936年 撮影所を蒲田から大船に移す
・1951年 日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』を公開
・1953年 五社協定に調印
・1996年 渥美清が死去
・2000年 6月、大船撮影所を閉鎖
・2009年 配給と共同製作を手がけた『おくりびと』がアカデミー賞外国語映画賞を受賞
・2024年 TBSホールディングスと資本業務提携に合意

蒲田と大船

蒲田撮影所は、小津安二郎、木下惠介、島津保次郎、成瀬巳喜男、五所平之助らを世に出した場所とされる。撮影所を実質的に担ったのは、新進の城戸四郎である。1931年には日本初の本格的トーキーとされる『マダムと女房』を上映し、1936年に大船へ移った。
大船では、1950年代から60年代にかけて中村登、川島雄三、小林正樹、野村芳太郎、今村昌平、山田洋次らが活動した。篠田正浩、大島渚、吉田喜重らは「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる。1951年には日本初のカラー映画とされる『カルメン故郷に帰る』が出た。

歌舞伎との関わり

松竹は歌舞伎座、新橋演舞場、南座を持ち、多くの歌舞伎俳優と専属契約を結んで、歌舞伎の制作と興行をほぼ独占している。1909年から1963年までは文楽の制作と興行も独占した。1980年には演劇と映画の営業収入がそれぞれ約120億円と同規模だった。映画会社であると同時に、舞台の会社でもある。

大船の閉鎖とその後

1970年代以降は、渥美清が主演した『男はつらいよ』シリーズが、外部の俳優ながら会社を支えたとされる。1996年の渥美の死去の後、邦画の興行ブロックが止まり、大船撮影所は閉鎖へ向かった。2000年6月に閉鎖し、敷地は鎌倉女子大学に売却された。1999年にはブロック・ブッキング(系列館に自社作品を一括して割り当てる仕組み)を廃止し、作品ごとに劇場と契約するフリー・ブッキングに移っている。2011年には直営の映画興行部門を子会社の松竹マルチプレックスシアターズに譲渡した。

なぜ今も語られるのか

松竹の映画は、監督の名前と撮影所の名前が結びついて語られることが多い。小津や木下の名は、撮影所が人を育てる仕組みと結びついて語られる。大船の閉鎖は、その仕組みが日本の映画界から消えていく節目でもあった。同じ年に撮影所を持つ会社の数が減っていたことは、大映や新東宝、日活の歴史からも分かる。

興行会社としての歩み

映画以外の動きも細かく追うと、会社の性格が分かる。1912年に松竹女優養成所を開き、1920年には歌舞伎座で洋画の興行も始めた。1921年に帝国活動写真を松竹キネマ株式会社に改称し、1923年に大阪松竹座が開場、1930年に東京劇場が開いた。1937年に松竹キネマと松竹興行が統合し、現在の松竹株式会社になっている。戦時中は戦意高揚映画を作るため、大船に特撮部門を置いた。
戦後の動きは苦しい面もある。1995年に大船撮影所の敷地内で鎌倉シネマワールドを開いたが、不振で1998年12月に閉鎖した。1998年1月には奥山融社長と奥山和由専務が取締役会で解任されている。2004年に迫本淳一が社長となり、2023年5月に高橋敏弘に交代した。2025年7月にはBS松竹東急をJCOMに売却し、2026年5月26日には大阪松竹座が『御名残五月大歌舞伎』の千秋楽で閉場した。

評価の分かれる点

松竹の「ブロック・ブッキング」の評価も分かれる。系列館に作品を割り当てる仕組みは、会社に安定した収入をもたらした反面、観客の好みに合う作品だけが選ばれる状況を作りにくくしたという見方もあるが、今回の資料では数字で確かめていない。
創業の年は、松竹が起源とする1895年と、会社を設立した1902年、映画に参入した1920年で語り方が分かれる。何をもって創業とするかで数字が変わる。

くらさんの考察

松竹は、劇場の客を映画に回し、映画の客を劇場に戻せる位置にいた会社と考えられる。歌舞伎の収入があったことが、撮影所を失った後も会社を残す力になったと考えられるが、収支の内訳は今回確かめていない。

ジージへの問いかけ

・大船の松竹映画といえば、どんな作品を思い出しますか。
・歌舞伎座と映画館とでは、松竹の看板に対する印象は違いましたか。

出典

・ウィキペディア「松竹」 https://ja.wikipedia.org/wiki/松竹

動画

・映画『男はつらいよ』(第1作)予告編映像/4Kデジタル修復版ブルーレイ2019年12月5日リリース(松竹チャンネル/SHOCHIKUch)https://www.youtube.com/watch?v=KqSw6_wuv3E

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